■马马虎虎de ALS■
チッソ技術者も水銀説確信
西田工場長は、1959年7月の熊大の有機水銀
説に対して、八月の県議会において強硬に反論しそれを認めなかったが、然しチッソ内部の技術者の仲に熊大の発表が正しいと確信していた人達がいた。 当時助触媒の
二酸化マンガンを
硫酸第二鉄に代える研究を命じられた塩出忠次氏は、母駅にアセチレンを吹き込んだ時、母腋が白濁した後いったん透明になるが、しばらくすると又濁ってしまう、それは、
アセチレンが母駅に吸収され
アセトアルデヒドが出来るが、触媒の作用により同時に有機水銀化合物が出来ていることを知った。
有機水銀副製について社内でも問題になったが、熊大の主張に対して無機水銀の使用ついては認めていたものの、それが
何故「魚を介して有機化するのか」について、説明が出来ないことを有力な根拠にしていた上層部に対して、そのことについて実証しなければ納得してもらえなかった。
さらに1951年助触媒を変更した直後から酸化器から母液がもれあふれる現象が続き、このことにつき「対策提言」をしたが、長い間そのままの装置で運転、母駅の流出は絶えなかった。
その後石原純一氏が社内の技術部で、水俣病の研究を命じられた、石原は状況から原因は社内にあることを確信し、いろいろ調べているうちに排水中に有機水銀が含まれていることを確認、又それを結晶化することにも成功、それも塩化メチル水銀であることも突き止めた、それを上司に報告とともにここでもネコ実験により、その経路とプロセスについての研究を始めるも、案陳闘争にぶつかり研究が続けられなくなりお蔵入りとなってしまった。