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裏街道を往く

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 昨年9月末、某旅行社が、日航機往復で高野山金剛峯寺奥の院と熊野三山を巡る格安ツアーに参加してから、にわかに熊野古道を歩きたくなり、先週実現しました。熊野古道といっても、一本の道を指すわけでもなく、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)に通じる参詣道の総称です。古道の中には、吉野山金峯山寺と熊野本宮大社を結ぶ、一般の人々には近づきがたい、大峯奥駈道という修験道行者の苛酷なコースも含まれています。今回、僕が歩いたのは、一番一般向けで、平安時代から法皇一行が熊野御幸でたどったコースである中辺路(なかへち)です。滝尻王子(王子とは熊野神の御子神を祀る「小さな社」ぐらいの意味と思って下さい)から熊野本宮大社まで、38.6㎞あり、山頂や峠を何度も越しますから、途中二泊するのが普通です。今回、僕は、リュックの荷が重すぎたことと、軽登山靴を履いて行かなかったので、初日、途中で一般道に出て、バスの助けをかりたり、二日目も、一部のコース区間をバスに頼りました。

 

滝尻王子を朝なるべく早く出発しないと、宿泊地の近露(ちかつゆ)には夕方につけないので、古道歩き前日は、紀伊田辺のホテルに泊まりました。部屋も広く、快適に過ごせました。何と朝食が無料で、おにぎり、パン、タマゴ、納豆、牛乳、コーヒーなどありました。駅発のバスで45分ほどで、滝尻に着きました。滝尻王子のすぐ前に、熊野古道館という、古道の案内、展示、休憩施設がありました。そこで、藤原定家が1201年に、後鳥羽上皇の随員として参加し記録した日記「熊野御幸記」を、イラスト旅日記の絵巻としたものが売っていたので買い求めました。それによると、京都、石清水八幡宮を出発して、13日目に本宮大社に着き、そこから速玉大社には熊野川を舟で行き、そこから大雲取越えの難路をへて、那智大社に達した後、帰路について、22日目に京都鳥羽に戻っています。途中、山の中で宿泊することもあり、この御幸が苛酷であったことがわかります。定家もこの旅の厳しさを記していますが、それについては又の機会としましょう。

 

さて、滝尻王子から早速、急な坂道を登っていたところ、案内板を見過ごして、道を外れてしまった上に、おまけに地面が濡れていて滑って転倒してしまいました。また、その転倒で、平静を失ったのでしょうか、「胎内くぐり」の巨岩のところで、くぐる意味がないのに(この岩穴をくぐると安産の御利益があると言われる)好奇心でくぐってしまい、リュックがつっかえて、しばらく難儀しました。このふたつのことで、もう先がおもいやられました。そして、荷の重さも次第に応えてきましたし、軽登山靴ではなかったので、足元も次第にふらついてきました。予定より30分以上遅れて、鎌倉時代創建の古社、高原熊野神社にようやく辿りついたときには、この先5時間以上アップダウンを繰り返す自信がもうすでになくなりました。神社を少し進んだところに、休憩所があり思案して、コースを続けても、夕方5時に宿に着くのが困難と分かって、30分ほど下って一般道に出て、バスに乗り、また今日の宿泊地の近露の手前、牛馬童子入口で降りて、コースに再び入りました。この判断、作戦は成功でした。無理をして、宿の人に心配をかける事態にならなくて、良かったと今は思っています。

 

 

 

中辺路のシンボル的存在の牛馬童子像は、あの花山法皇が熊野御幸の際の旅姿を模したものとされ、現在の像は明治時代に造られたそうです。石像の足元には、小銭がかなりたくさん置かれており、その後ろには日本酒の瓶もありました。山中にひっそりとあるのが何とも言えません。

 

 

 

石像のある箸折峠からは、石畳の急坂を下って、橋を渡ると、近露王子がすぐそこです。「近露(ちかつゆ)」の名の言われも、上記の花山法皇が、食事をするため、草木の茎を折って箸にしようとしたところ(箸折峠の名の言われです)、茎から滴るものがあり、法皇が「これは、血か、露か」と側近に尋ねたことからだそうです。花山法皇という方は、何かとキャラの濃い貴人だったのでしょうか。

 

近露で泊まったのは民宿でしたが、風呂も温泉、夕食も一般の旅館と遜色のない内容でした。天ぷらも揚げ立てを出してくれました。豆の入ったご飯もおいしくいただきました。熊野古道は、外国人旅行者が(圧倒的に)多い所で、この宿もその日は5人が外国人でした。同じテーブルには、日本人旅行者2人連れで、いくつものピークを越す難路を通ってきたとのことで、話が盛り上がり、夕食の時間も大いに楽しめました。

 

古道二日目。朝、7時23分のバスで道湯川橋まで。バス車内は圧倒的に外国人が多く、運転手が慣れた口調で英語のアナウンスをしていました。ここから、10分ほど上って、古道の迂回ルートに入るのです。この日一番の登り、一時間かかると思っていたら、30分ほどで着き、拍子抜けしました。問題は、その後急な下りがつづくことで、荷が重く腰の負担となり、痛みを覚えたたことです。体を休めていたら、キャンプ用具を備えた大きなリュックの日本の若き女性が後からやってきて追いつく際に言葉を交わしました。にこやかな表情を浮かべ、優しい感じの女性でした。何気ない会話でしたが、疲れていた自分には、本当に癒しとなりました。その後蛇形地蔵から湯川王子を経て船形神社までは、うら寂しい道が続き、おまけに誰にも抜かれることも、すれ違うこともなく、とても心細く気持ちで歩を進めていました。ところが、船形神社では、多くの人が、昼食をとって休憩していましたので、気が楽になりました。先程、話をした女性もいましたので、再びちょっと話をしたところ、今夜の宿泊先が同じと分かり、何という偶然と喜びました。休憩していると、今度は、ガイド付きのツアー一行(皆日本人で15人ほど)が現れました。この人たちとも、2,3度抜きつ抜かれつで、あいさつを交わすことになりました。僕は、普段一人暮らしで、人としゃべるごころか、あいさつを交わすことさえほとんどないので、今回の古道歩きは、精神衛生的にも良い旅でした。

 

神社から発心(ほっしん)門王子までは1kmほどで、ややきつい登りでしたが、つらいのはもう少しと気力は落ちませんでした。発心門というのは、聖域の入り口であり、悟りを開く門の一つということです。ここからは本宮大社行のバスが出ており、最終が14時43分なのですが、午後1時頃、王子に達し、まだ7㎞ほど歩ける余裕があったので、歩きを続けることにしました。

 

 

発心門王子には立派な休憩所もあり、大勢の人が休んでいました。上記の団体も昼食をとっていました。ここから伏拝(ふしおがみ)王子までは、車道を歩くことが多く、距離は稼ぎやすいのですが、やはり味気なく感じます。これまでなかった集落も見えてきます。発心門王子から伏拝までは、1時間15分ほど。あたりに茶畑が広がる伏拝王子は、丘の上のさらに高台にありました。昔は、ここから本宮のあった大斎原(おおゆのはら)が望めたといいます。熊野詣に来た人々は、そのありがたさに伏して拝んだことに地名は由来します。この王子は、和泉式部の供養塔があり、詠んだ歌が掲げられています。

 

晴れやらぬ 身のうき雲の たなびきて 月のさわりと なるぞかなしき

 

 

 

つまり、式部がこの伏拝の地にたどり着いた時、月の障り(月経)になってしまったという。当時は月経中の身は不浄とされていましたから、式部は参拝は無理と諦めかけ、その時詠んだ歌が上記の歌ということです。しかし、その夜、式部は夢の中で、熊野権現が次のような歌を詠まれたため、翌日参拝を無事に済ませたといいます。

 

もとよりも 塵にまじはる 神ならば 月のさわりも なにかくるしき

 

熊野本宮の語り部たちは、熊野の神の懐の深さを象徴するエピソードとしています。

 

平安時代、熊野は険しい地で、とても和泉式部のような女性が参詣したとは考えにくいことから、どうしてこのような伝承が生まれたのかを帰宅後ネットで調べたところ、室町時代に熊野信仰を広めた、一遍上人を祖とする時宗の念仏聖たちが、熊野の神の「浄不浄をきらわず」受け入れる点をアピールするために作った物語ではないか、という記事を見つけました。その真偽はともかく、その類のことだと思われます。

 

伏拝王子には茶屋(休憩所)があり、中国人の若き女性が10人ほどにぎやかに談笑していました。おそらく、バスで発心門まで行って、そこから本宮まで歩いて行くのでしょう。

 

伏拝から本宮までは、3.3kmなのですが、所要時間が長く感じられました。発心門からは下りの連続とばかり思っていたのですが、しばらく緩やかな上りが続き、なかなか山中を抜けないので、余計につらく感じました。ようやく下り道となり祓戸王子に着き、本宮の森が見えてきた時は、本当にほっとしました。午後3時50分ごろ、本宮の裏鳥居に到着。一日にほぼ登山道と言っていい道を17kmも歩いたのは、学生時代、奥秩父の山々を登山して以来だと思われます。