今回はクレイジーケンバンド

リーダーの横山剣さんの

クールスRC時代。

そして、デビューまでの

経緯をお話ししたいと

思います。



佐藤秀光さんに言われて

ファンクラブのスタッフを

していたら、いきなり

バンドのボーカルに

人事異動されたケンさん。

幼少の頃から自然に自分で

曲を作っていたこと、

人気バンドのスタッフとして

働いていたこと、

容姿も含めて、

バンドのみならず、

デビューの声が

かかっていました。

「その時期、
悶々としていました。

だけど体の中では音楽が
鳴っていて、

いろいろなデモテープを
作っていました。

自分が表に出たいというよりは
作曲家、つまり裏方で
いたかったんです。

だから、いろんな音楽関係者へ
曲をプレゼンしていました。

もちろんクールスRCにも…
でもクールスRCには

ジェームスさんという
天才がいるから、

入り込む余地がないわけです。
そんな時に・・・

実はレコード会社の人が
曲を結構気に入ってくれて、

バンドには入らないで、
うちでデビューしない?と
言われていたんです。

でもほぼ同時にボーカルに
抜擢されて、

『さあ、どうしよう…』と
思ったんですけど、

いきなりソロで出ても
だめだろうと、

まだ経験が足りないし、
やっぱり自分の曲を人に

歌ってもらうことの方が
うれしいし、

バンドだとそれができるなと
思って、ソロの話を

断ってクールスRCに
入ることを選びました」

晴れてクールスRCの

ボーカリストとして

新たな道を歩み始めた

ケンさんは、

17歳のときに作った自分の曲

『シンデレラ・リバティ』で

デビューをします。


「17歳のときに作った曲を
ジェームスさんに
アレンジしてもらいました。

何でもない曲だった
んですけど、

ジェームスさんのおかげで、
素敵な曲になりました。

ジェームスさんも作曲家、
本来だったら自分よりも

作曲を担当するはず
だったんだけど、

『とにかくお前が
表に出ろっ!』と

いうことで背中を
押してくれたんですね。
本当に感謝しています」


そして、

当初ジェームスさんが

考えてくれていた芸名は、

シングル盤の作詞作曲の

クレジットに

「横山剣輝」として

記載されるはずでした。

しかし、何かの間違いで

「輝」が無くなっていて

「横山剣」と印刷されて

いました。

既に、全国に出回って

しまっているため、

あえて訂正することも

しませんでした。

ここから横山剣としての

人生が始まります。

それは、クレイジー・ケンの

スタートでもありました。


クールスRCのボーカルになり

2年が過ぎた頃、

レコード会社などの

スタッフから

「昔のクールスに
戻った方が良い。

クールスがバンドとして
一世を風靡していた頃の
曲をセルフカバーしよう」

などとバンド自体の
方向性の変換を求められます。

その当時の事をケンさんは
自身の自伝書

『クレイジー・ケンズ マイ・
スタンダード』の中で
このように語っています。

「新人のおれには昔の
クールスに戻りようがない。

当時のおれの楽曲、
おれの存在そのものを
否定されたわけで、

曲を書いてナンボの
おれの居場所は
どんどんなくなっていた。

おれは舘ひろしさんが
いた時代からの

オリジナル・メンバー
じゃないし、

単車チームとしての
ルーツを持つクールスの

歴史から見れば、
ある意味、不純物だ。

原宿のクールスRCには
伝統がある、

横浜のおれには
音楽しかない。

バンドに求められているのが、
『音楽』だけではなく、

初期クールスとしての
質感である以上、

おれはここを卒業、
いや、中退しなければ
ならなかった」


こうして、ケンさんは

クールスRCを脱退しました。

その後、ダックテイルズ、

E.R.D

(Enjoy Relax Delight)

改名してZAZOU、

というバンドを経て、

クレイジーケンバンドの

前身とも言われる

CK'Sまで、

結成と解散を繰り返す

時代を過ごします。

「ZAZOUを辞めた後、
運送屋でビールの
配送をしながら、

作曲の仕事も
始めていました。

バンドはもうこりごりだったんで
『バンドは遊びでやろう』と
決めたんです。

そんな時に縁があって、
ライブハウスのイベントへの
出演依頼があり、

急きょ、バンドを結成した
ノリで出来たのがCK'Sでした。

そこそこ人気もあり、
とあるアパレル会社の

事務所にデスクと
専用電話を置かせて
もらったのが、

現事務所ダブルジョイ
レコーズの前身の会社であり、

そのアパレル会社の代表が
元・クールスRCで一緒に

働いていた、
現在おれの右腕となる
萩野君でした」


『目指すのは日本一の
アマチュア・バンド』

として、肩肘張らない
マイペースさで

CK'Sが活動していた頃、
ケンさんのソロ名義の

アルバム
『クレイジーケンの世界』
の話が生まれます。

「インディーズも
真のインディーズ
=自主制作です。

本当はソロじゃなく
バンドとしての
作品だったんだけど、

実験的にやるので
ソロにしたんです。

バンドで失敗すると
そこで終わってしまうので、

ソロで失敗ならいいやと
思って試験的にソロを
出したんです。

これが、ダブルジョイ
レコーズの記念すべき
第1号アルバムなりました」

完全自主制作盤としての

スタートで1995年に

リリースしたこのアルバムは、

当時、メジャーなレーベルの

宣伝手法であった

「音楽誌を中心とした雑誌」

「街で流れる有線放送」

「車などで聴くラジオ」

「ドラマや歌番組、
CMなどのテレビ」と

いう主要メディアから

紹介されることは

ほぼありませんでした。

が、当時の流行を加味した

クラブ系リミックスを

入れたアナログ盤などを

作成し、都内のクラブを

中心にDJたちの間で

プレイされるようになると

話題を集めます。

そして『これならいける!』と

思ったケンさんは、

正式にクレイジーケンバンドを

結成することになるのです。


「笑い話だけど、
最初はそんな自主制作の
インディーズですからね。

ある程度は売れて
いたんですけど、

バーコードなどで表す
POSコードは記載
されていません。

だから、いくら売れても
チャートには入り
ませんでした。

集計外の商品ですからね(笑)

また、JASRACにも
登録してなかったので、

作詞・作曲などの印税は
計算されません。

その代わり、
売り上げからの手数料を
一銭も引かれませんでした」


クレイジーケンバンドが

デビューした時、

ケンさんはすでに37歳でした。

過去にプロミュージシャン

としての経験があるにせよ、

当時、若手のバンドは、

ロックならロック、

パンクならパンク、

ヒップホップなら

ヒップホップなど、

まずは自分たちの

アイデンティティー的

ジャンルを明確にして

デビューすることの方が

多かった時代です。

当時はミクスチャーなどの

ロックとヒップホップを

混ぜ合わせたような

新ジャンル的なスタイルも

出てきた頃でもあります。

その中でも、

ケンさんたちのスタイルは、

新しいとも古いとも言えない、

時代に流されないような

ものだったのかも

しれませんが……。

「僕たちのスタイルは、
全然、需要のない
ところでしたね(笑)。

ジャンルも歌謡テイストとか、
R&Bとか、すべてが入り込んだ
オールジャンルですから。

何者?的な目で見られて
いたんだと思います。

良くも悪くも当時若手の
バンドが次々にデビューして
くる時代でした。

その時代と逆行しているような、
またどこか遊んでいる

『企画バンド』のような
ものとしてもとらえられました」

クレイジーケンバンドは

企画バンド的に思われ

やすかったのは、

数々のバンドで苦い経験してきた

ケンさんを中心とした

メンバーがオトナであり、

ただのバンドでは

不可能なほど多くの

ジャンルの要素を柔軟に

取り入れた独特なスタイルに

なっていました。

自称・・・

「東洋一の
サウンドマシーン」と

呼んだそのスタイルは、

自由奔放な楽曲で

幅広いファンを獲得していき、

限られたコアファンを

少しずつ育てていく

若手バンドとは一線を

画していました。


いかがでしたでしょうか?

面白い話がいろいろ。

ジェームス藤木さんとの関係

そして、本当は・・・

横山剣輝という名前だった。

面白いエピソードが

盛りだくさんでしたね。

まだまだ続くのですが

続きは次回ということで