今回は横山剣さんの
高校時代のことについて
触れてみたいと思います。
偶然にキャロルのステージを
見る子ことになった剣さん。
衝撃を受けた反面
「俺の音楽とはちょっと違う」
そんな印象を持った。
その後、時は流れ・・・
高校生になったころ
とある店に入りました。
その店が今後の剣さんの
人生に大きく影響する!
■原宿の古着屋に立ち
寄ったのがきっかけで
定時制高校へ通っていたころ、
「クールス・ロカビリー
クラブ(RC)」との
出会いがありました。
17歳のころLAで大量に
古着を仕入れてきて、
その処分に困って原宿の
古着屋に売り込みに行った時、
「CHOPPER」という
ブティックにも立ち
寄ったんです。
クールスRCのリーダー
佐藤秀光さんがやっている
店だと知り、
ミーハーにもTシャツに
サインしてもらって(笑)。
当時僕は神宮前に住んでいて
通学路の途中に店があったので
そこにたむろする
ガキの一人になりました。
ある日、佐藤さんから
呼び出されて、
ツアーに同行するボーヤ、
つまりローディーとして
明日からツアーに来い、と。
「学校が……」と言ったら
「学校行ったって
しょうがねえだろ」と。
それもそうだなと、
クールスRCのスタッフに
なりました。
その後マネージャーや
ファンクラブの責任者を担当し
3年後・・・
ボーカルに人事異動(笑)。
クールスRCには
ジェームズ藤木さんという
すばらしい
メロディーメーカー
がいたんだけど、
ジェームズさんが
「お前も曲を書け」と
チャンスをくれた。
デビューシングルは、
僕が作った曲を
ジェームズさんが
アレンジしてくれました。
実は以前から曲を作っては
レコード会社に売り込みを
していたんだけど、
まったく取り合って
もらえなかった。
デビューシングルの曲も
以前NG食らった曲だった。
ようやく日の目を見ることが
できて、うれしかったですね。
「フゥ、俺もようやく
ここまで来たか……」
なんてたばこを
くゆらせて(笑)。
ところが3年後、
レコード会社の方針で、
舘ひろしさんがいた
70年代のクールスの方向性に
もう一度戻せという話に。
僕は80年代になってからの
メンバーだから
戻りようがない。
辞めるしかないかな、と。
それで脱退しました。
■ようやくメジャーデビュー
できたのに、またゼロから
始める。
どんな気持ちでしたか?
クールスRCではすごく
修業できたし、
個人的にやろうと
していたことは
クールスを継承する質の
音楽じゃなかったので、
ゼロから始めることには
なんの抵抗もなかった。
これを機に作曲の仕事が
メインになったらいいな、と。
僕の中では常に
プライオリティーは
作曲にあったので。
で、チャンスを
うかがってたんだけど、
なかなかうまくいかない。
実はクールスRCを
辞めたとき、
ラッツ&スターの
メンバーだった
山崎廣明さんから声を
かけられていました。
「剣ちゃんの作る
オリジナル曲が好きだから、
一緒に音楽やりたいんだよ」と。
作曲を全面的に
できるならと、
山崎さんとバンドを
することに。
そのバンド
「ダックテイルズ」は
ちゃんと事務所にも所属。
野口五郎さんを中心とする
音楽事務所でした。
ロックの人はみんな自分で
曲を作るので、
作曲屋になりたかった僕は
歌謡界に身を置いたほうが
都合がいい。
そんな思惑もあったのです。
でも、芸能系の仕事も
やらなきゃいけなくて。
まさか自分がグアム島で
やった芸能人運動会で
マッチと駆けっこすることに
なるとはね(笑)。
ちなみに1位がマッチで
俺は2位、
そのあとがシブがき隊の
フッくん、
ヒップアップの
島崎さんでした。
作曲さえできるのなら
アイドルと走ったっていい。
曲を有名にするためなら、
チョンマゲ姿だろうが
なんだってやってやる!
そう豪語してました。
「ダックテイルズ」は、
プロ時代よりも
動員するほどに
■ダックテイルズ」では、
自らが作ったオリジナル曲が
やれることになりました。
それがすごくうれしかったん
だけど・・・
デビューシングルは
ずっと目標としていた
筒美京平さんに作曲を
お願いしました。
たまたまレコーディング
ディレクターが
筒美さんの弟で、
頼んでいただいたのです。
シングルで注目を集めて、
僕が作った曲はアルバムで
聴いてもらえればいい。
そんな下心もあったりして。
レコーディングで念願の
ストリングスが入った美しい
音色を聴いたときは、
涙が出そうになった。
筒美さんのデモテープを
聴いて・・・
「なるほど!
こうやってやればいいのか」
かゆいところに手が届く
ようなメロディーで、
ヒットメーカーというのは
こういうことなんだと
勉強になりました。
でも売れなかった。
せっかく筒美さんに
書いてもらったのに。
その後、山崎さん以外の
メンバーとのすれ違いや
僕らの素行不良もあって、
僕と山崎さんは事務所を
クビになってしまった。
ダックテイルズは
アマチュアバンドに戻って
活動するようになりました。
ライブのチケットを
泥臭く手売りしたりも
しました。
横のつながりが強い
ツッパリパワーで
結構売れて(笑)、
どんどんライブに
来てくれる人が増え、
大きなホールがいっぱいに
なるなど、
プロ時代より動員する
ほどになった。
ちょっとしたプロ以上の
規模だったと思います。
音楽も、リーダーが
音に貪欲で、
ホーンセクションや
コーラスも入れてくれました。
■やりたいことがやれて、
人気もあって満足でした?
それで満足していれば
平和だったんだけど、
僕がもっと違うものを
やりたくなってしまった。
ヒップホップと生演奏を
融合したような音楽を
思いついちゃったんです。
ダックテイルズと
並行することも考えたんだけど
そうもいかなくなって、
ダックテイルズは
1988年に解散しました。
新しいバンドは、
Enjoy Relax Delight、
略して「E.R.D」。
のちに「ZAZOU」と
改名しました。
黒人のギタリストがラップと
DJを兼任。
僕はキーボードとボーカル。
最高のボーカリストを
見つけるまでのつもり
だったんだけど、
だんだん歌が増えて
結局、ボーカル専任に
なっちゃった(笑)。
ちなみに、そのとき
一緒にやっていたのが、
CKBのメンバーになる
ドラムの廣石恵一と
ギターの小野瀬雅生です。
ZAZOUはメジャー
レーベルからアルバムを
リリースもしたんだけど、
いろいろあって、末期には
「もうバンドはこりごり」と
いう気持ちになってしまった。
そのころ、
神崎まきちゃんや
MOON DOGSに曲を
提供したりして、
自分としてはバンド以外の
活動がそこそこ
充実していたんです。
バンドはこりごり
だったはずなのに
そんなとき廣石さんから
「ジェイムス・ブラウンや
P-FUNKのカバーをする
バンドやるから
手伝ってくんない?」と
誘われて。
バンドはもう嫌だからと
断ったんですが、
「じゃあ遊びに来れば?」と。
軽い感じのノリに油断して、
フライドチキンをお土産に
まんまと練習に遊びに
いったらすごくいい感じで、
ついマイク握っちゃった。
で、もうそのまんまに(笑)。
そんなタイミングで、
横浜の本牧オフィサーズ
クラブという
ライブハウスの
マネジャーからライブの
オファーが。
まだ1回か2回しか練習に
参加してないのに、
なんだか気持ちが
大きくなって
引き受けちゃった。
それからバンマスの
廣石さんに相談して
メンバーを集め、
15人編成の
ファンクバンドに。
それが「CK'S」です。
佐藤秀光さんとの出会い。
そして・・・
その後いろいろなバンドに
参加してきた剣さん。
自分の音楽をかたくなに
守り通したんですね。
そして・・・
ケンクレイジーバンドへと