朝原先生が3ヶ月に1度開催しておられる「能のことばを読んでみる会」で昨年7月に読んだ能「班女」は、僕にとってはミステリー以外の何物でもありませんでした。

 

記事前編(「謎編」)ではあらすじ紹介とともに、能「班女」にはどんな謎が隠されていたかを示しております。後編ではこれらの謎をひとつずつ解いていきたいと思います。

 

    

謎①

野上を追い出されたとき、なぜ花子は少将のいるだろう東に向かわず、下鴨神社に向かったのか?

 

謎②

吉田少将は野上に花子がいないことを知ったときに、なぜ「もし花子が帰ってきたら、京都に行くことがあればついでに必ず私に知らせてくれ」と女主人に申しつけたのか?

 

謎③

少将は都につくや否や「宿願があるから」と突然言い出して下鴨神社に向かったが、なぜか?

 

謎④

下鴨神社で舞い歌う狂女が花子だと気づいたのはどのタイミングだったか?

 

謎⑤

野上の里であの晩、少将と花子とのあいだにいったいどんな約束が交わされたのか?

 

 

さてどこから考えていきましょうか。

まず、前提として知っておくべきことをみましょう。下鴨神社の位置づけです。

 

下鴨神社は古今さまざまに歌われています。なかでも有名なのは古今和歌集の「恋せじと御手洗川にせしみそぎ 神はうけずもなりにけらしも」(恋を忘れようと思って下鴨神社内を流れる御手洗川で禊(みそぎ)をしたんだけど、神様は願いを全然かなえてくれなかったようですね)でしょう。

禊というのは水の流れによってケガレを洗い流してしまおうという儀礼です。恋心がケガレって発想も面白いんだけど、とにかくまぁ下鴨神社は恋を忘れるための聖地として観念されていたことは知っておいてください。

 

これを知っていると、謎③についての答えが自然と浮かび上がってきます。

謎③への答え

「花子への心残りをきれいさっぱり洗い清めたいと思い立ったから」。

 

ロマンチックに考えたいなら、「下鴨神社の神様が花子の聞き届けたから、吉田少将は下鴨神社に導かれた」って解釈もできますけどね。でも僕はそんな解釈はぜんぜん支持できない。

 

だって吉田少将、野上の宿の女主人になんて要求しました? 「もし花子が戻ってきたら、京に来るついでがあれば知らせてくれ」って依頼したんですよ? ついでってなんだよ(笑) 切迫感なさすぎでしょ?

 

ということで謎②の答えはこれしかありませんね。

謎②への答え

女主人に「京に来る用事が出来たらついでに知らせてくれ」とアリバイ的に依頼したのは、吉田少将はもう花子のことをそれほど想っていなかったから。

 

ということで吉田少将はいそいそと下鴨神社に詣でました。忘れるために。そしたらそこには狂女(アイドル)がおりました。吉田少将、狂女がダンスするのを鼻の下を伸ばして眺めているうちに、舞っているのはひょっとして花子であるかもしれないと思いました。疑いが確信に変わったのは扇の交換タイムでした。

 

というのが公式発表です。

 

しかしみなさん、騙されてはいけません!

花子はバリバリの狂女ですから、奥ゆかしく顔を隠したりなんかしません。顔面丸出しです。声も周囲に聞こえるようにはっきり大きく出しています。ですから少将は狂女が花子だとすぐに気づいたはずです。公式発表なんか嘘っぱちです。

 

じゃ、なんで吉田少将はすぐに名乗り出なかったのか。

 

そんなの、躊躇ったからに決まってるじゃないですか(笑)

すでに(もともと?)それほど愛してはいなかったため、花子に声をかけるのをつい躊躇ってしまったのです。

 

もっと突っ込んで考えると、最初は臆していたけど、花子の歌やダンスを見ているうちにふたたび気持ちが盛り上がったので、思わず芝居がかったような再開シーンを演出したってところじゃないでしょうか。(「扇を見せてくれ」という申し出ってなんだかお芝居クサイと思いませんか?)

 

ということで謎④に対する答えはこれです。

謎④への答え

花子の舞いを見てすぐに気づいたけど隠れていた。

 

まぁそんな感じで僕の読みでは吉田少将って小心者で自己保身的です。近年あまり好ましい言葉ではありませんが、男らしくない。

そのうえ、なにか気の利いた歌を詠むこともありませんから風流人でもありませんし、古歌を挙げるわけでもないから教養人でもない。要するに、中身空っぽなダメダメ男なのです。

なんでそんな男に花子ちゃんはころっと騙されてしまったのでしょうか? これが謎⑤です。

 

これについては、古今東西、ダメな金持ちの定番口説き文句を用いたのではないかと僕は想像しています。いやべつに証拠はないんだけどね(笑)

謎⑤への答え

「オレの京の家、すごいんだぜ」「都では毎日こんなふうに愉快に過ごしてるんだぜ」とさんざん都の華やかさを語り、田舎者の花子がうっかり信じ込んでしまったところで「お前を妻として迎え入れたい、ついては……」と口説いた。

 

だってさ、こうでも考えないと吉田中将、あんまりにも魅力がないんだもん(笑) 

ま、今日のところはこれで辛抱してやってください。

 

そして、残るは能『班女』最大のミステリー、すなわち花子の行動なんですよね。

花子はなぜ追い出されたあと東に向かわず、京の都に向かったのか。

 

もし恋心のあまりに合理的思考力を失ってしまっていたなら、きっと東の方へふらふら歩いていたことでしょう。(能「隅田川」で子をさらわれた母は東国まで歩いていきます) でも花子はそんなに愚かではありませんでした。

 

花子がいた美濃国の野上というのは、関ケ原のあたりです。google map で確認してもらえたら一目瞭然ですが、東国から京に戻るときには絶対に通る場所です。再会したいならここで待つべきで、ここなら必ず会えるはずです。

 

しかし花子は野上の里に居座ることを選ばなかった。なぜか。

 

仮に野上の里で再会したとしましょう。吉田少将というダメ男はどう出るでしょうか。「いったん京に戻ってお前を迎える準備をし、用意が整ったら迎えに来るよ」みたいな感じのテキトーなことを言うに決まっていますよね(笑) それでそのままきっと迎えに来ないはずです。

ダメ男というのはそういうものです。

花子が野上の里を離れたのは、そうなるだろうと見通していたからに違いありません。

 

ではなぜ京の都に向かったのか? またなぜ京のなかでも下鴨神社に向かったのか。

 

花子は貴族相手の遊女ですから和歌の素養はある程度あったでしょうし、御祓川のことも当然知っていたはずです。

そこで吉田少将が花子との恋のケガレを落とすために御祓川に行くだろうと見通し、下鴨神社に先回りしたのではないでしょうか? そこで公衆の面前、自宅のすぐそばで運命的な感動の再会なんてしちゃったなら、さすがに少将もいい加減な逃げの手は打てないことでしょう(笑) 妻として迎え入れざるを得ないはずです。

 

そう考えると、待ち構えるうえで下鴨神社以上の場所はないんじゃないでしょうか。

花子ちゃん、頭いいよね!

 

ただし下鴨神社で待つ作戦にも問題が一つあって、それはいつ少将が下鴨神社にやって来るか分からないという点です。

しかしここで待っていさえすれば、いつか必ず少将を捉えられる。そう信じて、あたかも獲物が絡まるのを待つ蜘蛛のように花子は下鴨神社に巣を張って、あとはじっと待ち続けたのです。

 

その結果、どうなったか。

吉田少将は徹頭徹尾自分の意志で動いているつもりでいましたが、いつの間にやらまんまと花子ちゃんに絡めとられてしまったのでした。しかも絡めとられたということに気づかぬままに。

謎①への答え

吉田少将が下鴨神社にやって来ると読み切っていたから。

 

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ミステリーとしての「班女」という読み、いかがだったでしょうか?

 

僕が朝原先生の会で能『班女』を精読した結果読み取ったのは、花子の大胆な行動力と恐ろしいほどに的確な人間理解でした。それはほとんど古典版『絡新婦の理』と言ってもいいくらいじゃないかと思います。

 

精読しなければ、健気な花子ちゃんの恋愛譚なのにね~~(笑)

 

能ってホント、面白いですね!