観光庁が支援する「誘客多角化等のための魅力的な滞在コンテンツ造成」実証事業として高松市とあなぶきトラベルが共同で実施した「ことでんレトロ電車貸切と古き町並み「仏生山」町歩きモニターツアー」に参加してきました。

実証事業のモニターツアーなので代金は無料でした。

さらに嬉しいことにレトロ電車は密にならない様に1車両あたり10人程度と少人数での開催です。

 

ことでん仏生山駅に午前9時45分に集合で法然寺までの2㎞程の道を街並み散策しながら歩きます。

先ずは仏生山駅前のくさか精肉店さん(九州の皆さん、「臭か精肉店」じゃないですよ・・・。ガーン)

横の道を南進します。かつて仏生山駅から塩江温泉郷へ続いていた塩江温泉鉄道の線路跡となる道路で、電車ではなくガソリンで走る鉄道車両が走っていたため、現在でも「ガソリン道」といわれています。

 

程なくガソリン道から分岐する路地に入ります。

 

古い道標が指さす方向へ路地を進みます。

グーグルマップには載って無い住宅と水路の間の通路を進み・・・

次の道標を東方向へ。

 

田圃のあぜ道ですね。

正面に石積みが見えますが、お城の堀の跡でしょうか・・・。

この辺りはグーグルマップに載っていない部分で、下の地図では手描き緑色で修正している部分です。

やがて進行方向左側に百相(もまい)城城跡の石碑、別所九兵衛さんの功徳碑が見えてきます。

 

ここ、高松市の仏生山町の前身は・・・

明治23(1890)年、出作村(しゅっさくむら)の一部の区域が百相村(もまいむら)に合併して香川郡百相村となりました。

明治31年(1998)年の町制施行時に仏生山町に改称。1956年に高松市に合併されています。

 

【百相城城跡】

こちらの石碑は百相村の城跡(1185年築城)にあります。

合併時に旧百相村を「甲」、旧出作村を「乙」と区別したそうで、「大字」を表す地名はありません。

現在の住所表記も「高松市仏生山町乙」「高松市仏生山町甲」となっています。

ことでん仏生山駅は仏生山町甲302番地にありますので旧百相村の地域であることがわかります。

記録によると江戸時代にはこの石碑の周囲100メートル四方がお城だったそうです。

石碑の南側の水路に残る石垣はお城のお堀跡とのこと。

 

【別所九兵衛功徳碑】

ガイドさんの説明がこちらの石碑について始まったとたん、何故だか録画していたビデオのSDカード認識が出来なくなり、録画がストップしてしまいました・・・。ゲッソリ

オイラがモタモタとビデオカメラをいじってると、ガイドさんがオイラに「石碑のうしろに(九兵衛さんのお名前が)書いてありますよ」と言って下さるのですが、撮りたくても撮れない~。滝汗あせる

石碑の後ろ側は後日あらためて撮影させて頂きました。

私有地の畑側からの撮影になるので、作物を踏み荒らさない様に気をつけましょう。

 

別所九兵衛さんについては、香川県立図書館のサイトで「讃岐ものしり事典」104ページの記事が掲載されていましたので以下引用させて頂きます。

 

 

問 讃岐別所家と別所九兵衛功徳碑について (高)答 別所家は播州三木城主別所長治の子 別所源兵衛長行が、落城後に讃岐に逃がれ、  善通寺に入った。のちに出家を拒んで香川郡百合郷 (現在仏生山町) に移り住んだ。 それが讃岐別所家の祖である。 長行は慶長5年 (1600) 9月、旧臣らととも に関ヶ原の戦に参加して、9月16日戦死した。 年21歳。 別所九兵衛 (包好) は、長行の遠孫で、 八郎兵衛敬信の子に生まれた。 寛保2年 (1742) に家督を継ぎ、庄屋となる。 宝暦4年 (1754) には、大庄屋 (香川郡 東八か村) を兼務した。常に農事を奨励し、各村ごとに倉付米 の制度を設けて、余米を蓄積し、その利益で田畠 を購入して自作農を多くした。また、饑饉に備えたから、 天明の大ききんにも八か村からは餓死する者はなかった。 さらに他郡にも自米300石を出して救済するほどであった。 寛政4年 (1792) 2月10日没した。 文政7年 (1824) に、高松藩主松平頼恕は子の九兵衛長儔 (高70石小寄合並) に白銀若干を与えて、 永く業績を伝えるために、屋敷内に功徳碑を建立させた。 碑文は高松藩儒員岡内禄の作である。 ○ 香川郡志 P317~P319   讃岐人名辞書 P141  高松地名史話 P48 以上引用 ほほぉ。てことは石碑自体およそ200年前に建てられたってことかぁ。ポーン

【川中地蔵】【地神さん】

 

ガイドさんから貰った資料で詳しく書かれているとのガイドさんの案内でしたが、資料に見つけられませんでした。 NPO法人「仏生山魂再開発フォーラム」さんのサイト中、「昔話と方言集」のコーナーで川中地蔵さんのお話の朗読音声がダウンロードが出来ます。

 

 

この朗読によると・・・

昔、地元の百姓が川を大掃除した時に川底から出てきたお地蔵さんの頭を、そのままにはしておけないと洗ったところ、その晩にお地蔵さんが夢枕に現れ「歩けんが~、歩けんが~」と訴えたという。

そこで皆でもういっぺん川ざらいをしたところ、頭が見つかったところから離れたところで胴体を見つけたそうです。

頭と胴はピッタリ合ったそうで、「川中地蔵」としてお堂を建てて祀られたということです。 お堂がいつ出来たかはハッキリしておらず、文政5(1822)年よりも前のことの様です。 お堂のすぐ横には「天照大神」と彫られた石碑もありました。 グーグルマップでは「地神さん」と書かれているので、おそらく地元では永年そう呼ばれているのでしょう。

 

【本町通(お成り街道)】

 

川中地蔵さんのあるあぜ道から、歴代高松藩主が菩提寺へのお墓参りに通った全13㎞の「お成り街道」へ出てきました。 毎年10月の第3土曜・日曜には松平頼重の参拝の様子を再現した大名行列が1993年から行われています。 松平頼重は徳川家康の孫にあたる人で、水戸黄門こと徳川光圀の実兄。 後の松平家の菩提寺となる法然寺を1668年から3年かけて造りました。お寺の造営に続き門前街をつくるべく、商人に広い土地を無料で貸し与えましたが、当時は商売の見込みがなく門前町の形成はなかなか進まなかったそうです。

 

【そうめん特区?】

そこで松平頼重は高松藩内の素麺業者のそうめんづくりを中止させ、仏生山に移住した者だけに製造を許可しました。 お成り街道の道幅は六間ほどの広い道路で、このうち両端二間づつを素麺を干すのに使っても良いとされ、中央二間を通路として使用したそうです。貸し与えられた土地は奥行き三十間(約60m)にもおよぶそうです。 高松藩の施策で多くの素麺業者が移り住み、また地元の方も移り住んだ業者からそうめんづくりを習い門前町が形成されていったそうで、昭和の末頃までは仏生山の素麺作りは続いたそうです。 ラーメンむぅ~。仏生山がそうめんづくりの町だったとは、初めて知りました。現在には残っていない様ですが、地元のお祭りでは今も流しそうめんが行われるそうです。

天満屋呉服店(天満屋サンド)】

こちらの呉服店さんは創業から180年くらい。「うだつ」が残る建物です。 徳島県脇町のうだつは独立した瓦屋根が付けられたものが多い様ですが、こちらのうだつは「繁栄の証」として装飾が施されたうだつの様です。 現在は手作りサンドイッチのお店になっています。手作りのため、ひとつ造るのに15分ほどかかるので予約してからの来店がオススメだそうです。 町歩きツアーで訪れた水曜日は定休日でした。

 

手作り焼き菓子とケーキのお店ひぐち

こちらは土日限定販売の「仏生山堅焼シュークリーム」が人気のスイーツのお店だそうです。 先ほどの天満屋さんから交差点と駐車場を挟んではす向かいにあります。

ここまで(仏生山駅~お成り街道)のマップです。 一部グーグルさんのルート設定が出来ないので、画像上で緑色で修正しています。 散策コースでは一度お成り街道を横切って直進します。

 

神崎屋

このあたりの良質の水を使った創業230年(1789年(天明九年))という老舗醸造所で、「吉の酢」ブランドで知られています。 入母屋造りの家屋は、二階部分にうだつが施され、虫籠窓も見られます。一階は連子窓や古い看板が見えます。 ウォーキングではお店と醸造所の間の路地を通りました。路地にお酢の香りがほんのり漂っています。 醸造したお酢を雨で濡らさない様に路地に屋根が渡っています。 味のある看板はコトデン広告さんが手がけたそうで、ロゴの「書」は金刀比羅宮でも色々と手がけている有名な方が書かれたそうです。 こちらの看板は輸出用のお酢のブランドマークで、このブランドマークもかなりの歴史があるそうです。 シャッターに描かれたロゴが「鳩文字」とのご説明でしたが、この日はシャッターフルオープンで見られませんでした。 後日日曜日に来てみました。半開きでした。このロゴが鳩文字なのかなぁ・・・? あ!なるほど。よく見ると「酢」の文字の上部、鳥が背中合わせになってます! そしてお成り街道を歩いていると遠くからでもよく見える大きなこちらの看板でも「吉」の文字の上部が鳥が羽を広げた姿になっています。 地元スーパーでも取り扱われているそうで、お酢のブランドは米酢の「吉の酢」「寿し酢」「ゆず酢」「らっきょ酢」があります。 ゆず酢は徳島県の木頭ゆずを使用しているそうです。

 
 

吉の酢を使用したオリーブ牛寿司。上差し

屋根瓦には松平家の家紋と神崎屋の家紋がありました。

【懸魚】(けぎょ)

 

【前山坂道】

 
前山坂道の先が法然寺の総門です。

 

【地蔵堂】

総門の向かいに法然寺の地蔵堂があります。

 

【総門】

総門から黒門までは現世から極楽までの道中をあらわしているそうです。
黒門を入ったところの広庭、つまり極楽に到着した処まで、仏生山地区コミュニティ協議会のガイドさんたちが案内して下さいました。
わかりやすくて楽しいガイドありがとうございました。○┓ペコリ
 
法然寺の歴史と境内については次回にご紹介します。ツアーでは1時間程の自由見学でした。
 
散策コース後半のマップ下差し