1月2日

自宅から徒歩で眉山へ。

春日神社・滝薬師・白糸の滝付近から、神武天皇像前を通っていつもの登山口へ向かいました。

白糸の滝前の「滝のやきもち和田乃屋」さんのお庭のキバナアマも見頃。

 

写真は前回、12月中旬に撮影したもの。この時よりも多くの花が咲いている様でした。

 

和田乃屋さんについてはまた別の機会に詳しく紹介します。

滝のやきもちのある和田乃屋さん本店付近は寺町と呼ばれる地域。

寺町に隣接して西大工町、東大工町、籠屋町などがあり、城下町の頃に職業別に住む地域を決められていたことが今の町名にも残っていて、徳島市に限らず城下町ではこうした町名が残っている場所は多くあるかと思います。

 

寺町が眉山に近いのはもしかしたら、理由があるのかもしれません。

 

眉山に歩いて登るには、必ずと言っていいくらい、ふもとに神社やお寺があります。

数ある神社仏閣が相互に山道で繋がっていたり、ふもと付近の道はかなり複雑です。

神社仏閣が多いのは、どうやら「入山者のチェック」という役割があった様ですね。

 

山岳信仰においては聖なる場所への入口である登山口。

時代が時代なら今のボクみたいに「ちょっとメタボ対策の運動に・・・」なんて理由での入山は許されませんし、眉山がどうだったかは、調べていませんが、女性であれば入山出来なかったかもしれません。

 

文化9年(1804年)の阿波名所図会から大滝山持明院

国文研データセット簡易Web閲覧より、ダウンロードして再掲載。(クリエイティブコモン CC-BY-SA)

 

現在、神武天皇像(明治時代に建立)があるあたりまでは、1800年頃には既に名所だった様です。

「この所の眺望は殊に絶景なれば、別に図せり。」

とあり、「図せり」の図が↑の写真です。

 

持明院は寛延(1750年頃)に建てられたという三重の塔があったそうです。

「大滝山三重の塔」で検索すると戦前の絵はがきや写真がヒットします。

庶民の檀家さんを持たず、藩の保護のみで成り立っていた持明院は廃藩とともに廃寺となったそうです。

三重の塔は廃寺後も残され、周辺の神社仏閣とも多くの人が訪れていた様ですが、昭和の大戦で殆どが焼けてしまったそうです。

 

滝のやきもちの和田乃屋さんの先にある、白糸の滝は阿波名所図会のまま?現在でも見ることが出来ます。

滝薬師(和田乃屋さんの入口)はほぼ同じ位置で再建されています。

 

 

 

 

こちらは聖観音堂。焼失した大滝山三重の塔はこの場所にあったそうです。

昭和50年頃に三重の塔あとに建立されました。

 

観音堂からさらに石段を上がるとあずま屋が両サイドにあります。

多分、子どもの頃にお花見で何度となく来てる筈なのですが・・・。

お花見スポットの見る影も無い様な気がしますね。また春に見に来たいと思いますけど・・・。

 

更に進むと石割樫というのがありました。

ほかにも明治以降に観光客向けに建てられたであろう石碑の類いがイッパイ。

既に文字が読めないものも多数です。

 

このあたりもかつては花見客が居た雰囲気がありますが、今は絶景ポイントとは言えなさそうですね。

 

今回は八坂神社には寄らずに石段を進みます。

 

階段を上がりきって右方向振り返ると神武天皇像があります。

1897年に、日清戦争の戦勝記念として作られたそうです。

土木学会付属土木図書館の「眉山の変遷に関する研究」によると、1906年に「5月24日 「記念標」の敷地が,日露戦争後,参拝者が急増して狭隘とな ったため,城山山上に移転.それに伴い,記念標跡地に神武天皇像が移さ れた.」

 

ともある。神武さん、当初は別の場所に居たの?どこ?

 

阿波藍で栄えた徳島は、市制施行当初は全国でも10番目の人口だったそうで、1987年を境に減少していった様です。

なので、天皇像を造る財力がある人たちが居ても不思議ではないのですが、「なぜ徳島なの?」「なぜ時の天皇じゃなくて神武さんなの?」と考えると、本当の国産み神話の舞台は徳島のあたりではないかという説や、さらには日ユ道祖説なんかに繋がって行きそうです。

あんまり凝り固まった考えで突き詰めると、宗教的な方向に走ってしまいそうですが、「もうしそうなら夢のある話し。そうだったらいいね」程度で調べていくのも楽しいかもしれません。

 

古事記の「伊予之二名島」の「伊予」が愛媛県だけのことではなく、「伊」と「予」のふたつの名が付く島ととらえる説。

これによると「伊」は現在の徳島市あたり(の島?)で、「高天原」とは剣山のことと解釈する様です。

日ユ道祖論ではソロモンの秘宝が剣山にあるとか・・・。徳島県が唯一電車無し県なのも剣山というパワースポットがあるためだとか、言われてます。市内電車や「阿波電気鉄道」が電車を走らせる計画などもあった様ですが、人力車などの保守勢力の反対や資金難で続かなかったらしいので、たまたま電化に乗り遅れたんじゃないでしょうか。

 

電車無し県はさておき、徳島市付近あるいは徳島県東部が「い」と呼ばれていたという点は説得力在りそうな気がします。

徳島駅裏手の「城山」は渭山・猪山(いのやま)と呼ばれてきました。

渭山とは中国の黄河の支流「渭水」を描いた画と、城山が助任川に映る景色がそっくりだという説が、ウチの出身高校(城山から近い)の校歌の歌詞の解説でも説明されています。

 

また、城山付近から北を「渭北(いほく)」東を「渭東地区」などといいます。

城山のふもとには「城山貝塚」があり、縄文時代には城山の周りが海だったことが理解できます。

中国の風景画の中の川の名前が、海外旅行が一般的じゃ無かった時代に徳島の地で広まることは考えにくい。

仮に「渭」の字が「渭水」の渭だとしても、その字があてられる以前から「い」と発音していたと考える方が自然かと思います。

 

 

それはさておき・・・。

いつもの自然歩道から眉山にあがると、丁度剣神社の前(距離標の終点)まできたところで、I部長にばったり。

I部長は大学の頃からマラソンをされている様で、ここ数年も徳島マラソンなど県内外の数多くの大会やホノルルマラソンにも参加している方で、眉山にも度々トレーニングで駆け上がっている様です。

 

ボクはいつものロープウェイ沿いの自然歩道と眉山パークウェイ、眉山ドライブウェイといった道路以外、眉山公園付近につながる登山道を知らなかったので、I部長に付いてって降りることにしました。