前節で「少し変わっている」という表現をしたが、それは「特殊な能力」を、持ち合わせている雰囲気を醸し出していると言ったほうが的確かもしれない。
心大は、人の心をよんでいるような「目つき」や「発言」をするのだ。それは「観察力」にすぐれているとか「パターン化」を解読するのに長けているとかだけでは済ませられないレベルの不思議な力なんだ。
そのいわゆる「特殊能力」に遭遇したのは、わたしが全てを「無きもの」にしようと想い始めた日のことだった。
その日あの「危険な臭いのする坂道」で心大はわたしにポツリと呟いた。
「今のままのあなたが良いな」と。
わたしはその呟きに愕然とした。わたしの心の中を覗き込まれた。…そんな不思議な感覚だった。不思議に悪い気持ちはしなかった。逆に親しみさえ感じるような錯覚に陥り、彼を真正面から見ずにはいられなかった。心大は何事もなかったように、いつもと変わらない屈託ない笑顔で、まるで青春ドラマの主人公の如く、白い歯をのぞかせて「楽しんで」と、一言残し、あの「危険な臭いのする坂道」を100m走の走者の如く駆け上った。
「おかしな奴だ」と苦笑いを隠せずに、わたしはその場で「ある空間」を見据えていた。
それにしても「今のままのあなたが良いな」とは嬉しいような照れくさい響きであり、それはあたかも同じリズムで窓を叩く癒しという名の雨の歌声のように、「言霊」となりわたしの心の真ん中に届いた。
そうなんだよ、「ある空間」の住人であったわたしには確固たる信念があったんだよ。
そう、見返りを求めているわけでもなく、ただ純粋に「優しくしてほしいと思う人間には、呆れられるほど優しくすればいい」し、「温かい言葉が必要な人には呆れられるほど温かい言葉や態度」で、接してあげれば良い。ただそれだけで良いんだ。
「想いは還る」のだから。
わたしの心の真ん中に届いた「言霊」が、そんな感覚を思い出させてくれたわけなんだ。久々に温厚で平凡を好むわたしに還れた。「温厚で平凡を好むわたしに」だ。
叶うのならいつか心大と酒を酌み交わしてみたいもんだな。
しかし問題としてくすぶり続けている、わたしにとってのあの日の「叫び」そのものは今もまだ「消せない現実」として、耳に残り、心を傷つけたまま暗躍している。
この病院で、今日のような精神状態なら、なんとか克服できそうなそんな淡い予感を抱きながら、安全な寝床に帰る足取りは驚くほど軽やかだ。