2006年8月6日


日本の学生たち


  永い間日本から離れて生活していたため、ぼくの日本の若者に対する意識は、新聞・雑誌・テレビ等のマスコミを通じて蓄積されたものでした。無気力・礼儀知らず・ダラシナイ・・・

  張り切って日本にやってきたぼくは、多くの旧友たちから、がっかりしないようにと、いろいろ忠告を受けました。

  ロースクールの初日、ぼくは学生たちの表情を気をつけて観察しました。いろいろおりました。緊張した顔、ぼんやりした顔、まったく感情を見せない顔・・・ニコニコした顔はあまりおりませんでした。

  ぼくは学生たちに次々に質問してゆきました。アメリカのロースクールで使われているソクラテス・メソッドです。学生たちは少し戸惑ったようですが、ぼくはどんどん当ててゆきます。何か発言できるように、少しは助け舟をだしながら次々に質問します。

  ぼくがクラスで最初に教えたことは、間違えてもエエよということでした。とにかく、自分の思いを言葉で表現させるように毎日工夫してみました。少しづつですが、学生の発言が増えてくるのが感じられるようなってきました。

  学期の終わりには、学生たちの表情が変わってきたのが感じられました。ぼくに向かって安心して感情を出すようになった気がしました。ニコニコする学生が増えてきて、心からの対話ができるようになりました。学生たちに友情を感じるようになってきました。うれしかったですよ。

  そのときに気のついたことは、「こいつらオレの若い頃とちっとも変わらん!」ということでした。話し合ってみれば、若者たちの関心は、試験、就職、恋愛、親、金・・・ぼく自身が歩いてきた道とまったく同じではないですか。当たり前のことなのですが、何だかほっとしましたね。

  その次に考えたことは、こんなことでした。なぜ若者たちは大人に理解されないのだろうという疑問です。いつの世においても、「いまどきの若者は・・・」と言われて続けなければならないのでしょうか?ぼくの若いころも、さんざん批判されながら育ちました。

  自分自身の限られた経験を一般化するつもりは毛頭ありませんが、この疑問を解消する手がかりになるのは、「表現」にあるのではないかと思いました。

  学生たちと親しくなるにつれ、感じますのは、知識の量に対し、表現力の不足です。これは若者に限らず、日本の大人にも共通した課題かもしれません。

  知性とは、知識と表現が重なり合って作られると言ったのは、ぼくではなくて、近代知性の代表者カントです。今の日本の教育で欠けているのは、この「表現」にあるのではないでしょうか?

  知識と表現のバランスがとれたとき、魅力のある知性豊かな人間が育つのではないかと思われます。

  ぼくが1年半、日本のロースクールで教えた経験で感じたところです。限られた経験なので間違っているかもしれません。9月から始める秋の学期でこの点をテーマにして学生たちに接してみるつもりでおります。

  硬い話が続いたので、友人から送られてきたカワイイ写真を1枚。



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