イワト
=言・倭(吾)・答(→磐戸)が開(ひら)け、
魂の扉も啓(ひら)けて来て、
霊的神理が請け容れられるようになれたのならば、
気持ちは常に日本晴れ
=富士晴れ心(魂の底から晴れ渡っている状態)となりて来て、
何も隠し立てをするような日常茶飯事の無駄なアクトを演じる必要はなくなって来るわけで、
皆各自が真っ正直になって自分の過去前世や現世の過去に於ける過ちを晒け出していけるような流れとなり、
各々が内輪話やSNS等で前世は誰々だったとかとカミングアウトするようになっていき、
そのように自らの現世に於いて興されていたメグリ祓い事項と、
過去前世での摂理違反項目とを照らし合わせながら深く考察していく事に拠り、
意味不明に懐いて来た心の中のわだかまりのようなものも次第に消えていき、
更なる発展・弥栄を目指して生きていく為、
明日への希望が心の底から湧いて来るようになるだろう。


『今迄は影の守護であったものが、
磐戸が開いて表の守護となり、
裏表と揃った守護になったら誠(マコト)の守護である。

もうアクも善も隠れる処は無くなったぞ!』

との如くあるように、
個人の言倭答(イワト)
=魂の扉が啓いて大(おお)日津久(ひつく)の神が懸かるようになれたのならば、
表の守護と呼ばれる段階の守り神が就いて護って下さるようになり、
マコトのマツリ合わせにそぐわないものは即刻排除出来るようにもなっていけるわけで、
アク神の代理人として突っ掛かりや騒音を伴う邪念跳ばしに拠って撹乱させようとして来る愚者が万一現れたとしても、
直ぐ様撃退出来るようになって来れたと云えるなれど、
こちらも継続的にマコトの実践行動を維持していかねば、
細かい事でも即刻メグリ祓いが興される事態となる覚悟をしておいた方が善いと云えるだろう。


『皆が我だけの目的を立てようと思ってこの世に来ているぞ。

それではそれぞれの思惑は立たん。

御光(みひかり)が愛ぞ、
真(まこと)ぞ!

愛はマ(間合い)で、
真(しん)は言(コト)ぞ。

愛+真=真愛(しんあい)で、
これを誠(マコト)と云うぞ!』

とは、
現状のマアカタ奥山に於いても同様となっている、
過去前世から背負っているメグリを現世に於いて完全に祓って仕舞う為の、
身魂の磨き合いや因縁の余剰分を処理する為の惹き寄せであり、
そこで霊格の高い者が自我を抑えて神懸かる身魂となる事に拠って、
本来の思惑が誠の道理に沿って成就するような運びとなっていき、
本当の絶対的な形での光明となる「日月神示」と出合う事に拠って、
更に身魂が磨かれて霊魂の曇りが晴れ、
「富士晴れ心」で弥栄を目指すように日常を変えていく事が出来るわけで、
その為にはマコトの愛も必要となって来るのが物事の道理である。


そうした実践の場としてあったマアカタの御用以前より、
ヘンリー6世とランカスター家の本当の史実を捉える上で知っておく重要な要素と云える、
事実無根な言い掛かりや「濡れ衣」を着せられるような案件もあったようだが、
15世紀中盤のイングランドに於いて薔薇専掃が興されていた原因を、
当時のヨーク側だった者達がそれ迄のイクサ(百年専掃)の相手国だったフランス側の者達に、
ランカスター側の者が故意にそれを興していたかの如く偽装して吹聴し、
ヘンリー6世らをワル者扱いするような流言や噂を拡散させていた戦略上の工作もあったようで、
そう思い込ませたまま帰幽して日本に転生して来ている前世ではフランス側だった者達からも、
時空を超えた誤解を受け続けて来た可能性があるとも云えるだろう。

もちろんそういったデマの流布や理不尽な言い掛かりをされて来た件も、
お互いにある程度の因縁があってやられていたのであったとしても、
事実とは違う事の拡散を仕出かしていた当事者側の魂には、
アクの御用を働いたとしてメグリを遺す事にもなり、
後々逆に同様な目に遭って繰るしむ事に拠ってメグリを祓う事態へと発展するわけだから、
本当の真実を知った現時点から即座に改心するように自分自身の癖直しをすべきであるが、
専らイクサに関して云える真意とは、
当時の双方のメグリを祓う為に興されていた、
過去前世からの経緯があっての事象だったわけで、
どちらか片方だけがワルいだとかと一方的に責任を押し付けられるべきではなく、
もっと冷静な立場から公平に観直してみる必要があり、
当時の臣民の身魂の浄化の為に興されていたアクの御用であるイクサが、
結果的に時空を超えて更なるアクの御用を産んで仕舞わぬように、
真実を弁えた上で誤解を解きほぐし間違っていた側はその件を謝罪して、
再び突っ掛かり返し合いなどの愚行はせぬように、
お互いに仲良くして弥栄
=調和と発展の道を進んでいくべきであろう。


『分れ(別)の集団(マドイ)の一つとして宗教も作れよ、
他の宗教とは違う遣り方でないと成就せんぞ!』

とあるので、
ヘンリー6世そのものの当時の人格自体を神として扱う、
「ヘリ6教(きょう)」とかも創っておく必要があるかとは思うが、
独自な方法で現世の遍理意と対比させるが如き解説を講じていくべき示し方が必要で、
かといって教祖様面(づら)などはせぬように担当者は注意すべきである。


『身魂磨きに拠ってある程度神徳が積めて来たら、
人の前では自分を隠せるようになれるぞ!

頭(かしら)に立つ者は力を隠しておけよ。

昨日より今日、
今日より明日(あした)という風に、
毎日一歩一歩ずつ弥栄(いやさか)していくように心掛けよ!』

とあるが故に、
自己主張の強い独善的な形に凝り固まっているような現状では、
全体の調和を乱すようなアクの御用しか出来なくなって来て仕舞うわけで、
なるべく「己れ」というものを人前に於いては誇示せぬよう、
無私な形で利他愛の実践を示せるようになれるのが、
高級霊や精霊天詞様に見倣った本来あるべき慈悲・慈愛の姿であり、
特にこれからの日本を建て直す御用で人前に立っていくような者は、
己れの力をコレ見ようがしにアピールしてはならず、
「稔(みの)る程、
コウベ(頭)を垂れる
イナホ(稲穂)かな?!」

といった俳句の如く、
謙虚な態度で世の中の為にひたすら尽くさせて頂きますといった風に、
律儀で実直な姿勢を普段から維持していくべきであろう。

この宇宙の基本が調和と弥栄である旨を心底体得し、
それにそぐわぬものは外道となって曲がり繰るしみ途絶え逝くといった、
「道理どおりに」進んでいく神の摂理の絶対性を確信し、
毎日少しずつでも自らと全体の霊格の向上や発展に寄与するような形で、
何らかの駒を着実に進めているのであれば、
日津久の民として間違いない存在だろう。