高知県須崎市砲台跡 其の二
学芸員Fさんとの合同調査にて須崎市野見湾にあった砲台跡を確認致しました。
須崎市では幕末(1800年代)異国の黒船を迎え撃つ準備下での砲台が有名ですが…
今回、こちらでアップするこの砲台のことは、旧日本軍の資料に載っており、アジア・太平洋戦争末期の本土決戦準備下において日本海軍によって造られたものです。
資料によると須崎には四十口径四一式十五糎砲(弾300発)、四十五口径十一年式十二センチ砲が二門(弾600発)あったと記されています。
そして、今回訪ねたこの地は、四十五口径十一年式十二センチ砲があった場所です。
当時の現地の模様を詳しく記憶されている方に、事前に連絡を取り、ご案内をしていただきました。
目的地には道路から一気に登る感じです。
駐車場から10分ほどで砲台跡地に到着しました。
終戦本土決間際、本土決戦準備下、当時の証言を聴き取ります。
この地には、この大砲があったとのことです。
・口径:12センチ
・砲身長:5.4メートル
・砲身重量約:3トン
・最大射程距離:15.6㎞
・弾丸重量:約20㎏
・発射速度:10~11発/1分
この場所は、岬の様な突出した場所の山を切り崩した平地です。
現在は、攻撃目標となる艦艇や上陸舟艇などが来ると予想される正面側の海面を直視することが不可能となっていました。
砲台周辺の木々を切り取れば、北側はこの様に大谷地区の最深部かなり見晴しが効く場所であり、南西側の港開口部も見渡せる場所となります。
こちらの砲台も、今回現地調査協力を、快くお引き受け下さった、当時のことをよく記憶されている方に、お会いできなかったら、知ることができなかった可能性大な場所です。この度は、ご協力を下さいまして、本当にありがとうございました。
ちなみに、このお方は、あの須崎市法印山、第二十三突撃隊『電探基地』や、『震洋基地』のことも鮮明に記憶されていました。
証言と現地の戦跡、どちらも重要であり、須崎においても戦争を語り継ぐ手段のひとつとして大変貴重な存在であることは間違いありません。
※現在、直ぐ近くに須崎市立南中学校がありますが、この砲台や特攻艇『震洋』、人間魚雷『回天』が配備されていた事実を…。
そして、まさにその学校付近には機銃陣地があったことが次世代に教えられているのでしょうか…。