高知空襲を経験した建物.2
2012年8月24日にアップした『高知空襲を経験した建物.1』
先日、この建物が(2014年6月9日より)改修工事に入るとの情報をいただき記録調査に出向きました。
大正初期に造られた建物だそうです。築100年前後となります。
現在は周囲を背の高い大きな建物に囲まれています。
ここは、高知空襲(1945年7月4日)の中心地に位置しています。
1945年7月4日、午前1時52分から、約1時間にわたっての米軍機による無差別爆撃の高知空襲…
この、一夜にして、高知市街の48%が焼失してしまいました。
左上が高知城(赤字で6月7日と書かれた箇所)、この建物は、赤斜線内(地図中央やや上に位置し)の真ん中にあり、その場所は、はりまや橋と高知城間で、ほぼ電車通沿いとなります。
高知市が受けた空襲は
1945年1月19日
〃3月7日
〃6月1日
〃6月7日
〃6月19日
〃6月26日
〃7月4日
〃7月24日
計8回となり、犠牲者は少なくとも441名といわれています。
1階部分の縦長窓 です。
ジャロジー窓がいい感じをだしています。
東外壁の1~2階間にある、この円形模様、なんてモダンな造りでしょう…驚きました。お洒落で目立ってた事だと思います。
2階東面の窓。
この形状の窓、全てに鉄板扉が備わっていた跡が残っていますが、鉄板扉が残っているのは、この窓だけとなります(向かって左側枠には、モルタルで改修した跡が残っています)
同じ2階の東面で、鉄板窓と並列した窓です。こちらは鉄板窓の蝶番らしき物が残っています。
鉄板窓以外の窓枠全てがアルミのサッシに改装されています。
室内から、その鉄板窓を観察しようとしましたが、現在は窓自体が潰されて壁紙が貼られていました。しかし、窓をつぶしたお蔭で、鉄板を開閉する必要が無くなった…その結果、あの閉まったままの貴重な鉄板扉が残ったのではと推測します。
○高知空襲で投下された焼夷弾の説明:
1945年7月4日深夜の高知空襲で、B-29が125機飛来し、このE46収束焼夷弾が投下されました。
焼夷弾とは、爆弾、砲弾、銃弾に発火性の薬剤(油等)を充填したものをいい、使用目的は、主に火災を発生(焼き払う)させるためのものです。
B-29の1機につき、このE46は40発搭載可能。
仮に高知に飛来した、B-29(125機)全機に、E46をMAX搭載したならば5千発。
そして、E46内部には、M69焼夷弾が38本が束ねられているので、単純計算で、高知に降り注いだM69の最大数は19万発にものぼります。
(飛来125機中に、実際はパスファインダー(目標誘導機)などが含まれていると思われますので、数値は前後します。)
高知空襲で投下されたE46頭部(写真左)、尾部(右)実物
頭部はとても重たいです。頭部より安定落下させるために、錘の役目があったのでしょう。尾部はとても軽いです。
この頭部が落ちてきて屋根に当たると大穴が開いてしまう。人に当たると即死だと思います。
高知空襲、M69発火済み実物
発火前、重量1発=2.6kg
この高知のM69も、写真の様子ならば、女性工員が作ったかもしれません。力強い眼差し…工員は、どの様な気持ちであったのでしょう、想像もつきません。
チェーンブロック使用で移動中の様子。
日本では焼夷弾対応マニュアルがつくられました。
一生懸命、消火訓練が行われました。
NHKの取材があり、その様子がニュースで放映されました。
Fさんが、鉄板扉の説明をして下さいました。
鉄板扉が備わっていたお蔭で、空襲火災から、逃れることができたと推測。その可能性は大きいと思います。
一方で、もし、猛火を直接浴びていたならば、なんらかの曲りや歪がでるはずですので、この状態からすると、それらを回避できた…若しくは戦後に交換されたかもしれません。
今回の改修工事で取り外される予定の鉄板…長い間、建物を守ったという大役を果たし、近日中に、その役割を終えようとしています…。
上の写真、左側のアップ
写真左端中央やや上の明るい色の構造物が、この建物です。
(建物大きさや、窓の形状や数だけでなく、特徴のある壁構造の一致をみました)
窓枠や、一部の壁にはモルタルで改修した跡や増築部分もありますが、基本構造体に大きな変化はないようです。
大正初期の時代に建てられ、約一世紀経過…
高知空襲中心点で、戦争を体験し、翌年の昭和南海地震にも耐えた、戦争と地震を語る大変貴重な建物です。
改修されつつ、現存しているだけでも大きな意味、価値があると思われますが、それ以上に、人の住まい、現役であり続けていることが、本当に素晴らしいことです。
こらから先も、歴史を語り続けていただきたいと思います。