TBを貼ってくださった
pin-mgさんの『元禄15年12月14日 』より
>世のため人のためというのが、流行らない
ご時世のようですが、私情を捨て君主のために尽くした
四十七人を、ちったぁ見習って欲しい。
・・・私情を捨て、人のために生きる
のならわかります。
そう、
マザーテレサのような人…
これからの人間的成長の過程で
彼女に近づけきたい
とは、思いますが
赤穂浪士のように主君を想って死ぬのは…
どうしても納得できないんです
他人のために死ぬというのには
抵抗を抱いてしまう…
もちろんすごいことだと思います。
>赤穂浪士に関しては、自分達で、
憎しみの連鎖を断ち切ったのではないかと思います。
>やろうと思えば、逃げたりその場で自決できたものの
あえて幕府からの裁決によって死ぬことで
全ての憎しみを背負って死んでいったのではと。
でも、なんか悲しいです。
>確実に死ぬことがわかっていても、
人のために行動できるとうのは簡単にできないことです。
忠義や忠節というわけではありませんが、
>人のために行動する心は
最近の自己中心的な世相に欠けている心でしょう。
そうですね…
こんな風に思っちゃうのは
私が自己中心的な思想を持っているからかもしれません。
誰か教えてください
どうしたら
他人のためにすべてを投げだすことができるんですか?
どうしたら
死者のために忠義を果たして死ねるのですか?
・・・まだ、生きて
その手でいろんなものを作り出していけるのに…。
もったいないとか思わないんですか?
当時の残された者は
誇りを抱いて生きていけるかもしれません…
けど、私なら
大好きな人が誇りの為にいなくなっちゃうのは嫌です。
すごく寂しいし、悲しいです。
死んだ者の為に死んで欲しくない
生きている者の為に生きてほしい
これはやっぱり身勝手なことなんですか?
「誰か」の為に死んだとき
「誰か」は喜んでくれるのかな?
私には分からない…。
☆マザーテレサ語録とノーベル平和賞受賞
「恵まれない人々にとって必要なのは多くの場合、金や物ではない。
世の中で誰かに必要とされているという意識なのです。
見捨てられて死を待つだけの人々に対し、
自分のことを気にかけてくれた人間もいたと実感させること
こそが、愛を教えることなのです。」
1979年 ノーベル平和賞受賞
「わたしは受賞に値しないが、
世界の最も貧しい人々に代わって賞を受けました。」
ノーベル平和賞と言っても、
政治家や活動家が受賞する際には、
委員会の中でも意見が分かれることが多いそうですが、
マザーの受賞の時には、満場一致だったそうです。
彼女は、賞金の全額を寄付しました。
また、受賞後に問題が生じることもあるようですが、
マザー死去の報を聞き、委員長は、
「マザー・テレサの平和賞受賞はわれわれが大きな喜びと満足感を持って振り
返ることのできる受賞だった」と語っています。
受賞後も、朝4時に起床、シスター達と一緒に、
路上生活者やごみ捨て場に捨てられた幼児を施設に連れてくる
といった生活をほとんど変えずに行い続けた。
マザー・テレサの生涯 より抜粋
マザー・テレサ -Wikipedia
赤穂浪士 -Wikipedia