私が対象とするのは患者だ

 

患者を対象とすると、患者をとりまく環境である家族のことも切り離しては考えられない。

私は常々、患者を中心として考えてしまう。

介助力がある家族か、そこに協力してもらおう、といったように。

 

でも、当然ながら家族はその家族一人ひとりが人生の中心だ。

 

嫁や家族がいる娘、妻、等々女性が大半であり、やはり主介護者はとても気になる。
私の場合は、とりわけ若い患者で、成人していない子供がいる方の場合、とても気になってしまう。

 

男の子だった場合、好きな人ができて結婚しようと思ったとき、

相手は既に介助を必要とする義親を持つ人の元に来ようと思うだろうか。

女の子だった場合、自分を頼りにしている親を残して、好きな人の元に行けるだろうか。

 

そんなことを考えてしまう。

 

いつか、その患者のことをある種、“邪魔”だとさえ思ってしまうのではないか。

自分の親が“普通”だったら。

 

そんな風に思い悩む時が来るのではないか。

 

そんなことを私の親に話したら

「でもそれは、家から出ちゃいけない(もしくは相手に家に入ることが条件)とか、親に借金があるとか、それと同じことだよ、それもまたその人の運命だから。もしその条件がダメな人でも、また他にその条件を受け入れてくれる人がいるかもしれない、それと一緒だよ。」

そんなことを言われた。

 

うーん。確かにな。

 

とも思いつつ

 

でも確実に違うことは、患者が自ら望んでなったのではないこと。

その子供が何か思い悩む時が来た時、その時はきっと、患者自身も「自分が“普通”だったら」と思ってしまうだろう。

 

では、今自分がその患者にできる事はなにか。

何年後、十何年後の来る日に、何かあった日に、患者自身が自立していられるように、大切な愛する子を送り出してあげられるように

今、身体機能としても、精神機能としても、自己認知を促していくことが必要なのではないか。

 

もちろん、何かを思うのは患者自身である。

それまでの生活も、思考も、人生も、私は何も知らない。

だから、これから選択していくのも、間違いなく患者自身だ。

だからこそ、選択できるだけの余裕と情報と、情報を処理する能力と、できるだけのことを、今やっていきたい。

 

そしてそれは、家族と共に。