■ 殺処分しなくても同額の賠償金は出る
5月12日、首相名で20km圏内の家畜は農家の同意があれば殺処分(安楽殺)をする指示が出ました。命令ではありませんが、複数の農家が、意見を聞かれること・他の選択肢を示されることもないままに「安楽死するからサインを」と求められたそうです。
安楽殺しなくても賠償金は出ると農水省は言っていますが、殺さなくては賠償金が出ないと思ってしまい、同意をした農家があります。
安楽殺は、飢えと渇きの中で1か月以上生き延びていた家畜に水一滴与えることなく行われ、埋設はおろか、ブルーシートと石灰すら無い状態で所有者と近隣の敷地で放置されていました。当初の説明と異なりあまりに農水省や県がやらないので、せめてそれくらいは、と農家自身が徹底を要求したり、独自に死後処理を行ったところさえあるようです。
家畜が家屋侵入した損害を賠償請求される前に、と同意した農家もいます。しかし、農水省畜産振興課の見解では、愛護団体が勝手に放った場合は農家に賠償責任は無く、農家が放った場合でも、首相の避難指示のあった非常時のことなので、もし平時の法律である民事の損害賠償が生きるとしたら、同じく平時の動物愛護法「餓死させることの禁止」も生きるとのことです。
しかし、近隣の家屋への迷惑を考えると…――そう思った農家が集まったある町では、侵入を防止する電気柵を張るための準備が進められています。
地震・津波・原発事故のため、生き残った家畜を生かす運動(除染、給餌給水、サンクチュアリー:被災動物保護管理等)が、党を超えて国会議員の間に出てきています。農家を軽視する政策を取ってきているようですが、民主主義国では国民が最高意思決定者ですので、政治家が、生かしたい農家の声・国民の声に従うこのような動きは当然のことと言えます。
民間でも、国内・海外から、ペット・家畜救済のために、非常に多数の署名や電話が繰り返し内閣や行政機構に寄せられています。国会への請願も何度もなされています。
そして、犬・猫等のペット救済は環境省や福島県が全頭救うために活動開始し、多くの命が助けられてきました。
20km内の家畜は市場には出せないので、いまや家畜というより大型動物として、ペットに類似した動物として生きています。
多くの人が生かすための支援がしたいと思ってはいても、畜産農家自身の声が全国にあまり届いていないこともあり、「生かすための」支援をしてよいのか、どの畜産農家を支援したらよいのか二の足を踏む状態で4か月以上が経ちました。その間にも、家畜の被害、農家の被害は大きくなるばかりです。
生かすことをアピールした一人の家畜商兼農家の男性には、海外と全国から約5千万円の義捐金が集まった例がありました。これで見られるのは、被災した畜産農家を支援したい人がたくさんいるということです。この例では、その後使途に不明瞭な部分があったようです。だからこそ、直接間違いの無い支援をするために、純粋に「生かしたい」と思う農家自身が、まずその本音を声に出さないことには始まりません。
確かに、セシウム等の問題が圏外で出ています。食の安全に対する大きな問題です。だからこそ、農家の「圏内で」「生かす」ことを望む選択が、消費者に安心を与えます。家畜として命をいただくために育ててきた動物たちが、家畜として出荷できない状態にさせられてしまったなら、もはや、無駄には死なせないし、人様に迷惑を掛ける圏外への出荷もさせない。――このような毅然とした姿勢を見せることが消費者の信頼を集め、風評被害に歯止めを掛けます。
安楽殺は確かに圏外へ出荷される可能性を無くすかもしれません。しかし、同時に、自立自尊の精神や日本的な価値観を持つ消費者の購買意欲をも低下させる恐れがあります。日々の糧として命をありがたくいただいてきた日本人には、「食に供さないのに殺す」、「自らが殺されそうでもないのに殺す」、という選択肢は、動物にたくさん「依存している」・「負いすぎている」・「テイクばかりだ」と感じられるため、好まれません。
一度も生かしたいという声がきちんと届けられないままに「ひたすら殺処分ありき」と評される非人道的決定を下した政策は、後世から、無策すぎる・下策だったと汚点として残される可能性が高いでしょう。
人間が他の動物と大きく違うのが知恵の大きさであれば、今こそ人間の英知の見せどころではないでしょうか。
動物を一度管理すると決めたのであれば、最後まで誇り高くまっとうするのが人間の責任で、本当はそうしたく、そうしているはずだった農家が多いはずだと信じている人たちがいます。
家畜の命をいただいて生きる人間として、「食に供する殺生」以外の苦しみを与え続けないために、今こそ声に出す時なのです。支援したい人たちは待っています。