http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/34113
前回に続いて「放射能雲が通った街・南相馬市」からの報告を続ける。
東が太平洋、西が阿武隈山地に挟まれた南相馬市の「海側」は線量が低く「山側」が高い。そして福島第一原発に近い南3分の1はざっくりと立ち入り
禁止ゾーンにえぐり取られている。しかも「死の灰」(放射性降下物)は東京の官僚が机に座って地図に引いた立ち入り禁止ラインなどまったく無関係に広がっ
た。おかげで、立ち入り禁止地帯より人が暮らしている場所の方が線量が高いという珍妙な現象があちこちで出現した。そんな話を前回した。
場当たり的に設けられた「避難勧奨地点」
こうした「危険地帯」「安全地帯」の区別は、放射性降下物の散らばり具合に合わせて日々アップデートしていく必要がある。が、「20キロラインよ
り内側は危険地帯=立ち入り禁止」という規制は、4月22日から基本的に何も変更がない。忘れているのかメンツで動かさないのか、どちらだろう。
しかし、外側にも放射性降下物はどんどん広がる。住民や地元市町村が独自に放射線量を測ったので、20キロライン外側でも高線量の場所が次々に見つかった。
そういう地点に場当たり的に対応するために設けられたのが「避難勧奨地点」という名称である。要は、線量の高い場所を「点」として指定します、避難するなら補助します、というわけだ。
こうした名称のややこしさが地元の窮状を分かりにくくしている。そして官僚の愚策を見えないようにしている。自らの失策をごまかそうとしてわざと用語をややこしくしているかのようだ。
「警戒区域」 (立ち入り禁止ゾーン。20キロラインの内側)
「緊急時避難準備区域」 (20~30キロラインの間=9月30日で解除)
「計画的避難区域」 (20キロラインの外側なのに線量が高く避難を余儀なくされた地域。飯舘村など)
こうした「面」の指定に加えて「避難勧奨地点」という「点」が加わったわけだ。地図を見ると、それが天然痘の発疹のように増え続けている。私が南相馬市を取材で訪れていた12月上旬にも、市内の20地点22世帯が追加で指定された。やはりどの地点も山沿いである(参考「南相馬、伊達市の33地点 避難勧奨に追加指定
」福島民報、12月10日)。
日常的に線量計を持ち歩く人たち
その1つである「馬場」という地区を訪ねてみることにした。前回訪ねた高線量の山間部・横川ダムから4キロほど北東。20キロラインからも2キロほどしか離れていない。ここも、まさに放射能雲が通った真下である。
一帯は穏やかな農村である。田畑と家々が仲よく平野を分け合っている。冷たい冬風が道路を吹き抜ける。見上げると、広い空を雲がわたっていく。阿
武隈山地の稜線がくっきりと空を切り取っていて、美しい。まだ午後3時なのに、もう夕方の茜色の日が射している。畑で女性が太く育ったネギを刈り入れいて
いた。鍋に入れるとうまそうだ。
寒さのせいだろう。他に人の姿は見えない。ネギ畑の前で車を止めて、道端に線量計を置いてみた。すぐに液晶画面が真っ赤になった。毎時2.35マイクロSv(シーベルト)。「DANGEROUS RADIATION BACKGROUND」と赤い警告が出ている。
後ろに人の気配がしてはっと振り返った。いつの間に、どこから現れたのだろう。70歳前後だろうか、老男女3人が私の線量計をじっとのぞき込んでいる。毛糸の帽子とマスクの間から、6つの目がじっとこちらに注がれている。
「あんた、線量測ってるの」
そう問われて、ハイそうです、記者です、怪しいものではありません、と慌てて言った。
「で、いくらだった? ふーん。2.35か」
そして3人がそれぞれジャケットのポケットから線量計を取り出した。お互いの数字を見比べている。
「あんたのだと、いくつ?」
「ありゃあ、やっぱ2は行くべ」
「通り渡っただけで全然変わっちまうからなあ」
まるで天気の話でもするかのように、3人はおしゃべりしながら歩き去った。散歩中の近所の人たちらしい。このあたりの人たちにとって線量計を持ち歩くのはごく日常的な行為なのだ。
鳥も口にしない放射能まみれの柿
但野秀二(ただの・ひでじ)さん(63)の家を訪ねた。
窓から、オレンジ色の柿の木が見えた。枝いっぱいになっている。そういえば、ここへの道中もあちこちで柿が実をつけているのが見えた。枯れた色の農村に、鮮やかな茜色が青空に映えてきれいだ。そのことを告げると、但野さんは寂しそうに笑った。
「いつもなら、もいで干し柿にするんだけどねえ・・・今年は誰も食わねえなあ・・・濃縮しちまうからね。トリだって食わねえんだよ」
私ははっとした。放射性物質が降り積もり、柿を食べることができないのだ。そういえば、樹の根元には、熟して落ちた柿の実が散らばっている。だからあちこちで柿の実が木に実ったまま放置されていたのだ。
畑で育てていた牛の飼料用の牧草も、放射性物質のために出荷できなくなってしまったのだという。夏、玄関前の線量が毎時1.28マイクロSvあった。室内でも0.46だった。
同じ地区に「避難勧奨地点」が広がって不安ではありませんか、と私は尋ねた。但野さんはだまってテレビをつけた。液晶画面の下に、市内の測定ポイントごとの線量が表示された。山沿いが高い。福島県内のデジタル地上波放送では、こんな数字を見ることができるのだ。
「このあたりは、山からの風が強いからなあ」
風が吹くと阿武隈山地に降り積もった放射性物質がこちらに流れてくる、ということだ。
「山の方がずっと線量が高くなってきて、だんだん数値が上がってる。山の木を何とかしないといかん」
「除染するなら、ウチだけじゃ済まねえっぺ。防風林から風が吹くたびに飛んでくるんじゃなあ。まわりの田んぼとかもやらんといけねえ」
「半減期で下がるのを待つしかねえ」
ガラス窓の外に、丸坊主になった杉の林が見える。近所の家が、母屋を守っていた防風林を除染のために切ったのだ。
「あれ切って運ぶだけで30万円かかったそうだ。後ろに山しょってる人や防風林しょってる人は大変だっぺよなあ」
このあたりは江戸時代の藩の放牧地が払い下げられ、他町村からの入植者が開拓した農地だ。但野さんの家もそうだ。田畑はけっこう広い。3000坪くらいある。母屋や納屋の建坪は300坪ほどだ。
除染っていくらくらいかかるんだ? と但野さんは私の顔を見た。
私は東大の児玉龍彦教授がNHKの番組で挙げていた「住宅1戸560万円」という見積額を伝えた。但野さんはため息をついた。
「どうする? どうしようもねえ。半減期で下がるのを待つしかねえ。10年もすりゃあ線量下がるかもしれん」
県や市は除染について何か連絡してきましたか。
「行政も市も何も言ってこねえ。砂ぼこりの少ない街中(市の中心部)は大丈夫だって言うんだけどなあ」
(この直後、南相馬市役所に取材に寄った。12月市議会にようやく除染の予算が計上されたばかりだった。動きがないのも当然である)
「安全」な場所に避難したつもりだったが・・・
4年前に奥さんを亡くした。一人暮らしである。息子さん一家は山形県へ避難した。子供を連れて戻ってきたことはない。
「やっぱり子供が心配だもんなあ。俺の子供だったら連れて逃げるよ。10年か20年後に何かあったらって、そりゃ心配だ」
そういえば、このへんで見かける人たちはお年寄りばかりだった。子供のいる30~40代の家庭は6割が避難してしまって、いないのだ。
但野さんは放射能に関して数奇な偶然を経験している。30年間働いた勤務先が福島第一、第二原発だった。海水が循環する2次冷却水のパイプを掃除。使用済み燃料棒をプールの中で容器に移す。そんな仕事だった。
そして、第一原発が暴走したあと、避難した先がよりによって放射能汚染のために全村民退避になった飯舘村だった。
2回目の水素爆発があった3月14日、避難する息子さん夫婦の車に乗せてもらい、毛布1枚と手提げ袋だけ持って隣の飯舘村に入った。妻の妹の家に
身を寄せた。飯舘村なら30キロラインからも外側だ。山の中に入ってしまえば、遮るものがあるから大丈夫だ。そう思った。しかも避難先はいちばん原発から
は離れた側の集落だったので、ヤレヤレ安心だと思った。
すると翌日から、村内の線量が急上昇している、という話が駆け巡った。前回まで述べた通り、15日に高濃度の放射能雲が飯舘村に到達、雪と一緒に地表に降り注いだのだ。
但野さんが避難した先を聞いてみると、そこは私が線量計で道端を測ったときに毎時10マイクロSvを表示した野田集落だった。後にプルトニウムまで検出されている。何のことはない、わざわざ放射能雲の下を逃げて、それが降り注いだ先に滞在していたのだ。
結局17日に福島市に逃れ、27日には相馬市へ。避難先は遺体安置所だった高校の体育館だった。そしてまた線量の高い南相馬市の自宅に戻って暮らしている。
原発内で騒がれていた「身体汚染」が原発の外へ
避難先の飯舘村でも被曝して、健康が心配ではないですか。私は恐る恐るそう尋ねた。
「影響ねえって。原発で年間10ミリSv食って30年やってきたけど、おれ健康だから」
但野さんはガハハと豪快に笑ってたばこをふかした。
「まあ、オレはトシだからってのもあるしな」
私もつられてあははと力なく笑った。
但野さんはテレビの前でどっしりと構えていた。原発で長年仕事をしていたので、被曝に知識や経験があるからかもしれない。「慣れ」とでも言うのだろうか。
但野さんの仕事は、原発の中でも放射線量の高い区域での作業を請け負っていた。報道でよく見る白い薄手の防護服ではない。雨合羽のようなビニール
製にフルフェイスのマスクをつける。靴下は2枚、手袋は3枚重ねる。長靴を履いて裾や袖はビニールテープで封印する。それでも、マスクを外していたとき
に、上から放射線で汚染された水が落ちてくることがある。傷口があれば内部被曝する。そういう状態を「身体汚染」という。もちろん大騒ぎになり、除染する
まで出してもらえない。
そんな仕事をしてきた但野さんには、「あれほど原発の中で騒いでいた身体汚染が原発の外で一般化してしまった」ように思える。
「線で(規制)やったってダメだ。(放射性物質は)風に乗っから関係ねえっぺよ。20キロ規制とか解かなきゃなあ。ほんと情報出さねえし。何でもハンパなんだよなあ」
私が冒頭で述べたような政府のゾーン割りの愚かさを、但野さんはきっちり理解していた。こちらから話を向けたわけでもないのに、である。
「最初は(福島第一原発から)3キロ規制で、次は5キロ、10キロ、20キロと広がっていったんだ。携帯電話で『チェルノブイリ』って入れて(検索して)みりゃあ100キロくらいまでは危ないってすぐ分かるだろうに」
「ここは『緊急時避難準備区域』だとかさんざん言っておいて、解除したあとになって実はメルトダウンした燃料が格納容器の下にめり込んでました、とか今ごろ出してきて、一体何なんだ。何考えてるんだ」
但野さんは火がついたように話した。穏やかな語りに、凄みがあった。
外では、山から吹き降ろす風がひゅうひゅうと鳴っていた。
日本軍と原発に土地を奪われた
私は但野さんの家を辞した。
夕日が阿武隈山地に沈んでいくところだった。山の稜線が白く輝いていた。頭上の濃紺の空に星が輝いていた。
ふと、薄闇の中に、のこぎりの歯のようなコンクリートの建築物が並んでいるのが目に入った。近づくと、碑があった。戦前、ここには陸軍の飛行場があったのだという。コンクリートの建築物は飛行機の格納庫の一部だった。
入植のあと、貧苦のなか一帯を開拓した村人がようやく集落としての出発を祝った。昭和14年のことだ。そのわずか数年後、農地は軍の飛行場に接収されてしまった。そんな国策に翻弄された苦悶の歴史が、この地区にはある。
そして66年後、国のエネルギー政策の失敗の果てに起きた原発事故で、その土地に放射性物質が降り注いだ。ある人は家を追われ、ある人は怯えながら暮らしている。
格納庫の遺物の間から柿の木が生えていて、柿の実が熟れていた。夕日に染まった茜色の実は、抜けるような青空に映えて、それはそれは美しかった。
そこに放射性物質が積もっているのは分かっていても、美しかった。