2000年、17歳の少女がチェルノブイリを訪問した。そのときにうけた思いは率直で、フクシマを体験した今のわたしたちにもつよく訴えかける。
いつの日か、ヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマに見学にくる少年少女たちが、見聞きした事をこんなふうに世界に訴えるようになるのだろうか?
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20120417/231084/?mlp&rt=nocnt
1986年4月26日未明に起こったチェルノブイリ原発事故を、当時3歳にも満たなかった私は、当然のことながらニュースとして知ったわけではな い。どこで聞いたのか誰から聞いたのかは覚えていない。でも、子どもの頃からとても気にかかっていたし、チェルノブイリのあるウクライナやロシアなどのソ 連の国々に興味を抱くきっかけとなった。今の私のすべてを作ってくれたきっかけだったとも言える。
チェルノブイリへの思いが、チャイコフスキーやフィギュア・スケートを好ませ、モスクワ留学へ向かわせ、挙げ句の果てにチェチェンにまで足を突っ込ませたのだ。そもそも私の子どもの頃の夢は、チェルノブイリ原発事故被災地で支援活動をすることしかなかった。
親の反対を押し切ってチェルノブイリへ
2000年、私は17歳になった。生まれ育った青森県弘前市は社会も狭く、高校は受験勉強中心だった。何をするにもしがらみが邪魔する片田舎から、私は 出たくて出たくて仕方がなかった。東京はおろか盛岡まででさえも2時間半かかる東北の最北端に暮らしながら、8000キロ離れたチェルノブイリを訪れよう と、たった一人で企てていた。
インターネットは青森の高校生と世界の距離を確実に縮めた。東京にいれば、多くの非政府組織(NGO)があり、世界で何が起きているかが分かるよう なイベントが盛りだくさんだが、青森はそんな都会とは違って閉鎖的だ。でも、私は親に内緒で、インターネットを使って、チェルノブイリへ行くスタディーツ アーを見つけた。
娘が突然、「チェルノブイリへ行く」なんて言いだしたら、普通の親は止めるだろう。もちろん私の親も必死で止めた。しかし、「反抗児」だった私は行くと言って聞かず、結局、親の許しを得ることができたのだった。
成田空港の近くで、スタディーツアーの参加者が初めて顔を合わせた時、私は一瞬にして青森の家に帰りたくなった。なぜなら、私以外の人たちはみんな、標準語がペラペラだったからだ。
津軽弁しか話せなかった私は、とにかく黙っていようと口を固く結んでいた。自己紹介する時は、国語の授業での朗読か、檀上でスピーチをしているつもりに なって津軽弁を隠した。でも、この時の強い劣等感とショック療法のおかげで、翌日には標準語で会話を楽しむことができるようになった。
当時、コンコルドが墜落したばかりだった。それでも、ロシア航空のアエロフロートに乗ることは、ロシアへ好感を持っていた私にとっては、別に怖いことで はなかった。「ロシアの飛行機なんて大丈夫なの?」「落ちないの?」なんていう偏見は、私にはなかった。やっと念願がかなってロシアへ、チェルノブイリへ 行ける。わくわくして仕方がなかった。
モスクワは何車線もある広い道路や巨大な建物がたくさんあった。狭苦しい東京とは街の大胆さが違う。そして空も青く高い列車でベラルーシへ行くと、風景は田舎のものになった。青森の山や海の恵みが豊富な自然とは全然違う、ユーラシア大陸の果てしなさを思わせるような草原 で、私はその真ん中にいた。高く青い空と、360度見渡す限り続く地平線に囲まれた私は、まるで巨大なドームの中にいるように感じ、人間ってちっぽけなん だな、と生まれて初めて思い知った。
ウクライナにあるチェルノブイリ原子力発電所へ向かう途中では、雄大な平原に牛や羊、ヤギたちの群れが戯れていた。そんな風景がだんだん変わってい き、100キロ圏内、50キロ圏内、30キロ圏内と進むにつれて、人気のない暗い草原になり、だんだんと原発に近づいていることを示していた。
10キロ圏内の検問を通過し、プリピャチ川を横目に行くと、事故のあったチェルノブイリ原発の4号炉が見えた。4号炉は鉛とコンクリートに覆われて「石棺」と呼ばれている。
「石棺は私の心を恐怖心でいっぱいにした」
原発の本部にはバラが咲き乱れ、その横には当時稼働中だった3号炉があった(2000年末で停止)。石棺から330メートル地点にあるパビリオンから、 まじまじと事故のあった4号炉を眺めることができる。放射線量計の数値が変化するたびにびくびくして、私はなんだか具合が悪くなった。
「目の前にそびえ立つ石棺は、私の心を恐怖心でいっぱいにした。目に見えないはずの放射能を初めて全身で感じたような気がした。本当に怖かった…」(17歳の手記より)
ゴーストタウンと化したプリピャチは原発労働者の街で、ウクライナで一番新しい街で、4万9000人が暮らしていた。事故のあった1986年4月26 日、何も知らされていなかった住民は、5月1日のメーデーに備えて行進したり、サッカーをして遊んだりしていた。小学校の先生は生徒たちを連れて、原発事 故の消火活動を見せ、「あの人たちは勇敢な人たちだ」と教えていたと聞いた。
事故の翌日に1200台のバスによる避難が始まった。また、ここに戻れると誰もが思いながら――。
子どもたちを乗せることのなかった観覧車
プリピャチにはオープン目前だった観覧車が残っている。この観覧車は、石棺と同じくらい強烈な印象を残す、チェルノブイリのシンボルのような気がしてな らない。これは一度も子どもたちを乗せることのなかった観覧車だ。「大人たちが子どもたちを裏切ってしまった」と言われたが、本当にその通りだと思った。 子どもたちが住めなくなった場所にある子どもたちのための観覧車なんて…。
ベラルーシには原発はなかった。でも、事故当時の風向きのせいで、飛び散った放射性物質の70%がベラルーシに降り、ベラルーシの国土の30%が汚染さ れ、国民の5人に1人(約170万人)がこの汚染地域に暮らしているという。地図からも消されてしまった村はベラルーシ国内に485もあり、そのうちの 70の村々は地中に葬られた。
私は映画「ナージャの村」の舞台となったドゥヂチ村を訪れた。かつては300世帯約1000人が暮らしていたが、私が訪れた時には、もう4世帯6人しかこの村に残っていなかった。
人々が去ったために、村の伝統行事である「リンゴの祭り」と「けしの花の祭り」が消えてしまった。村の入り口には検問があり、警察が同行した。村中、廃 屋だらけで、家の中は床が剥がされていたり、屋根が崩れていたりしていて、中には残された日用品や家具、剥がれ落ちた壁が散乱していた。
「ここが高汚染であると知らされたのは、事故から3年後のことだった。人々が去り、祭りがなくなり、地図から消されてしまったこの村は、いつの日か本当に消えてしまうのだろう」(17歳の手記より)
もう一つ、強制移住地域となっているブジシチェ村を訪れた。この村は当時撮影が予定されていた映画「アレクセイと泉」の舞台である。高汚染の村で老人たち と共に暮らす唯一の若者アレクセイと、土壌が汚染されているにも関わらず放射能が検出されない泉のある村だった。この村で私は偶然、祖母を訪ねて村に帰っ てきていた3人の子どもたちと出会った。言葉が全く分からないため話なんかできなかったのだけれど、身ぶり手ぶりでコミュニケーションをとったのだった
「ドゥヂチ村とブジシチェ村の印象は緑の美しさ以外、全く正反対だった。住民や廃屋の数の違いからか、ドゥヂチ村は寂しく、ブジシチェ村は明るかった。ブ ジシチェ村では子どもたちと出会ったので、あの日は特に明るく感じたのかもしれない。しかし、子どもたちが非汚染地域に移っても高汚染の村にしばしば戻 り、汚染された食べ物を口にしているのかと思うと心配だ。でも、愛する村を子どもたちから完全に奪ってしまうことは、彼らにとって本当に幸せだと言えるの だろうか」(17歳の手記より)
“不幸”というレッテルを貼っていないか?
病院に入院している白血病などの子どもたちのうちほとんどは、見た目では健康体の子どもと変わらない。よく笑うし遊ぶ。病院ではビーズで作ったブレスレットをプレゼントしてくれた子もいた。
何が不幸で何が幸せなのか。私はこのチェルノブイリへの渡航中、ずっと考えていた。「先進国に住む私たちは汚染地域の住民や病気の人々に対して“不幸” というレッテルを貼ってはいないだろうか? どうすることが彼らにとって幸せなのか考えながら支援を続けていきたい。チェルノブイリに生きる人々は生きる ことに懸命だった。そんな彼らの姿が私にはとても輝いているように見えた」と当時の私は書きとめていた。
「不幸な人々を助けたい」という思いの中の傲慢さ
高校生だった私は、将来はチェルノブイリで支援活動をするのだと決めていた。でも、チェルノブイリを訪問して、多くの人々の笑顔に出会ったことによって、「不幸な人々を助けたい」という思いの中に、どこか傲慢さがあったのだと気づいた。
私は医療も発達し、経済的にも裕福な国に生まれたので、貧しくて放射能に汚染されて病気になっている人々を不幸だと決めつけていたのだ。この時初めて、 日本人は精神的な豊かさを、日常の便利さと忙しさ、経済的な豊かさの中で失ってしまっているのではないかと感じたのだった。
特に高校時代は、専ら偏差値を上げることや良い大学に入ることが「幸せ」であるかのように教えられていたので、その道を踏み外したら、幸せになる道はないのだとさえ思い込んでいた。
しかし、私はチェルノブイリで自分自身の幸せを見つけてしまった。のんびりと過ぎる時間と大きな空間の中で、人々はそれぞれの運命を受け入れ、それぞれが自分なりに幸せを見つける。
事故後も放射能汚染地域で新しい命が誕生し続け、中には病気になる子どももいるけれど、みんな次世代に尊い命を繋ごうとしている。原発事故があったか ら、病気になったからといって決して屈しない。それどころか、生きているという喜びを素直に表す笑顔は、勉強で疲れ切った周囲の高校生にはなかなか見られ るものではなかった。幸せは決して豊かな場所だけに転がっているのではない
青森に帰った私は、地元で盛んに行われていた脱原発関連のイベントに参加するようになった。高校を早退して青森市へ出掛けたこともあった。チェルノブイ リ被災地のために、青森を原子力の脅威から守るために、高校生の私に一体何ができるのだろうと、悩んでばかりの日々だった。
ただ、何も変えられなかったとしても、自分の意思をきちんと示して、チェルノブイリのことを伝えるなど、小さなことでも自分ができることから始めようと思った。
社会も人生も実に理不尽だ。青森のような辺境は、都会の豊かさの前で価値を見いだされず、核のゴミ捨て場にされてきた。チェルノブイリ被災地の人々は、被曝したり、病気になったりした。実に不公平だ。
でも、それに負けないで、前を見て、笑って、一生懸命生きることが大事なのだ。幸せは決して豊かな場所だけに転がっているのではない。誰もが「かわいそう」と思うような場所でも、人は幸せを見つけて生きられるのだ。
フクシマという名を耳にして、興味を持った遠い外国の子どもが、将来、日本や福島を訪れるなんてことが、これからあるのかもしれない。高校生だった私がチェルノブイリを訪れたように。
その時、その子は一体どんな幸せを、そこで暮らす日本人から見いだすことができるのだろう。