うちはずっとBIOを食べつづけているのですが、BIOにこんな哲学があったとは知らずにいました。
もっとも、BIOにも「安い」のと「高い」のが存在して、BIOのヒエラルキーが存在している気がします。さるうさぎの旦那は「BIO中のBIO」の店を開拓しては我が家のエンゲル係数をたかくしているのですが、さるうさぎはスーパーのBIOで満足。
以下転載
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/18580
放射能汚染時代、日本人はいかに生きるか
ドイツのBIO製品に見る、食の安全に対する考え方
ドイツでスーパーマーケットに行くと「BIO」という表示をしばしば目にします。正確には「表示」というより、ある一角に置いてある商品にBIOマークが付いている、と言うべきでしょうか。
このBIOマーク、今日の日本に示唆するところが大きいように思うのです。
BIOという考え方
BIO、ドイツ語では「ビオ」と読みますが英語風に言えば「バイオ」、バイオテクノロジーと同じく「生きている」「生命の」といった意味合いの語感 ですが、正確には「有機農法など、特定の品質水準をクリアした農業・畜産・水産製品にのみ、付けることが許されているものです。実は食品ばかりではなく、石鹸やシャンプー、化粧品など、人体に触れ、あるいは取り込む可能性のあるもの全般に、国が認めるBIO製品の基準があるようです。
平たく言えば「健康な食品」安全のマークとでも言えばいいでしょうか。
なぜなのか理由は分かりませんが、このBIOのコーナー、多くのスーパーで入り口のすぐ傍に設けられています。ことによると、店の外からも見えるところにこれを置いて、
「うちはBIO製品を扱っているんですよ!(当然ながら扱っていない店もあるので)良品を置いているいい店ですよ!」
とアピールしているのかもしれません。
改めて言うまでもありませんが、ドイツはヨーロッパのど真ん中、つまり大陸国家で、地続き陸続きで別の国とつながっています。EUとなり通貨が統合されてから国内外の物流は大変に盛んになったと思われ、より物価の安い国、地域からも第1次産業産品が入ってきます。
そんな中でこのBIOマークは、ドイツ国内農家を守る大事な役割を担っているようなのです。
大陸ならではの食品基準
BIOの商品は確かに、NON‐BIOのものより割高です。物にもよりますが1割、2割高いのは普通、ワインやビール、チーズやチョコレートなど、結構値の張るBIO製品もあります。
ただし、伝統的なブランド品、超高級品などはBIOマークとは無縁です。あくまで日常的に消費するような食べ物飲み物と思ってください。
しかし、BIOの品物であれば、いろいろな意味で安心して口に入れられるのです。
第1の理由は有機農法、つまり化学肥料を使っていないことですが、それ以外にも次のような理由があります。
●農薬を使っていない
●加工品の場合、添加物にドイツ国内法的な制限がある
●添加物に、具体的に言えば着色料や発色剤、酸化防止剤、保存料から化学調味料のようなものまで、かなり徹底したBIO基準が設けられている
一方でEUの通貨統合、ヨーロッパ大陸の経済的一体化が進む中、他方で国内農家保護など農業政策を進めるうえで、単に保護関税などを設けるのではな く「ドイツ国内の品物は高品質、高品位である。それは国の厳しい審査を通過してそうなっているもので、だからこそ安心して口に入れてもらうことができる」 という、一種の信用水準、ブランドになっているわけです。
経済原理としての品質保証
と、ここまで読み進められて、おかしなことを言うやつだとお思いの読者も多いのではないでしょうか。なぜって?
「そりゃそうでしょう、外来製品に保護関税をかけて値をつり上げ、国内製品は安価に抑えて市場競争力をつけてこそ国内産業の保護政策ではないか。外来作物が安価なうえに、国内製品の値をBIO保証と一緒と言いながらつり上げて、どうして農家の保護になるものか!」
確かにそういう考え方も、素朴には成立しうるわけです。
もし、古典的なマクロ経済のように、財の価値を価格だけで測るとすれば、そのような保護が経済官僚の主要な関心事になるでしょう。
実際、遅れた考え方の国ではそうした論法がまかり通ります。多くの発展途上国はむしろあとから発展しているために考え方が進んでいる場合も多く、あえてどことは言いませんが中途半端な国で大変遅れた政策を見るのは皮肉な事実でもあります。
ところが今日の欧州社会は、そういう単純な話で割り切れない極めて多層的な経済構造を持っているわけです。
もし世界が一元的な「グローバリズム」に支配されているなら、素朴な近代経済学の理屈で押し切ることができるかもしれません。しかし現実の国際社会は多様で重層的なシステムから出来上がっています。
例えば欧州には多数のムスリム、つまりイスラム教徒が在住していますが、彼らは基本的に「ハラ―ルフード」として戒律で許された食品のみを摂取します。いくら安価だからといって、ハラールでない食物は口にできないことになっている。
現実には低所得のムスリム向けの食料品店などがあり、決してハラールが高価なわけではないのですが、彼らはどんな安売りでも豚肉は普通口にしませ んし、単に価格だけで割り切ることができない、商品に付随する「属性」、もっと言うなら「情報」が流通を大きく左右することに注意すべきでしょう。
もっと露骨には、米国の秀才たち、ポール・クルーグマンやベン・バーナンキが振り回すようなインフレターゲットの議論で通用するような世界ではなく、ジョセフ・スティグリッツなどの繊細な情報経済学が有効な対象と言えるかもしれません。
ドイツは「保護関税」という閉鎖的な経済政策ではなく、あくまで「品質を保証する」「高品位の品物を作る」ということに特化して国内産業の育成政策を進めます。その結果、製品そのものの品質を基幹競争力・コアコンピタンスにまで鍛えあげるのです。
例えばルーマニアやウクライナの製品は安価です。ドイツのマーケットで目にすることも珍しくありません。と同時に、2011年の今日でも、東欧や旧ソ連の農業製品にはチェルノブイリ原発事故の影響が根強くささやかれていたりもします。
バイエルン州では1986年のチェルノブイリ原発事故直後、野生のイノシシ肉を食することが禁じられ、今日でも解禁されていません。定期的に州がチェックしているとのことですが、いまもって禁則は解除されない。そういう現実が存在しています。
ここで「ルーマニアなど東欧の製品はダメだ。チェルノブイリ以来、いまだに放射性物質が入っている『に違いない』」という予断に基づいて、その地域の生鮮食品をすべてEU中央の市場から排除しよう、という動きでないこと、ここに注目すべきと思います。
実際にドイツのBIO専門のマーケットで「ルーマニア産のBIOのジャム」を目にしたことがあります。「東欧の製品」だからといって排除するのではない、その品物の品質によって、正当な流通を確保し、安全な食品にはBIOマークで政府がその保証を請け負う。
そのような「開かれた経済政策」「品質本位の産業施策」が通用するだけの「リテラシー」が消費者に浸透していることで、経済が回転するメカニズムが保証されるのです。
階層社会と消費者リテラシー
実際のところ、大陸で地続きの欧州ではいろいろな品物が流通します。保存料だらけの食べ物、ギョッとするような色のついた飲み物なども目にし、またそれを買って帰る人もしっかり存在しています。
そんな中で「生の食べ物はBIOでなければ」と考えるドイツ人は決して少なくありません。ベルリン市内は少し歩けばBIO専門のスーパーマーケットが存在しますし、ちょっとばかり値段が高いからといって、その店が繁盛しないなどということは決してありません。
逆にEU統合以降、様々な国からドイツに流入する人々も増えました。彼らは必ずしも高い所得を得ているわけではない。しかし、そんな人たちが飢えることなく生活できるような、極めて安価な食べ物も存在、社会に流通しています。
それらは決してドイツ国内の最低限の衛生基準をクリアしていないわけではない。しかし合成保存料も入っていれば着色料も入っているでしょう。
そもそも化学肥料で育てられているでしょうし、もしかするとチェルノブイリの影響があるかもしれない安価な乳製品などを原料に含んでいる可能性も考えられます。
そういうリスクをリスクとして覚悟したうえで、安いものを買う、という選択もできる。そういう取捨選択のための判断力、つまり「消費者リテラシー」が、少なくともドイツ人にはかなり浸透していると思います。
生活保護が充実しているドイツでは、この国の国籍を持っている限り最低限の収入が確保されるセイフティネットが存在します。
最低限の衣食住は何とかなる社会。仮に失業中であっても入ってくる手当で、もし体の健康を優先したいと考えるなら飲食物はBIOの製品を購入して 住居や衣服などを節約することもできますし、食に若干のリスクがあっても安価なものがいいという人はそちらを選択することもできる。
こうした取捨選択が可能になるわけです。
3.11以降の食の安全
さて、いきなり話が日本に飛びますが、3.11以降、とりわけ東京電力福島第一原子力発電所事故に伴う放射性物質公害、とりわけ低線量被曝の問題が根深いものとなっています。
お茶、食肉、魚介類・・・思わぬ地方の思わぬ産品から、驚くような高濃度の放射性物質が観測され、多くの人が疑心暗鬼になりかねない状況で、何がこうした状況を解決してくれるのか・・・?
・・・私には、放射能汚染に関する「BIOマーク表示」に相当する品質保証に国が責任を持って取り組むことが、最も確実、かつ今後の日本の社会経済の発展を考えても、有益な選択肢であるように思われてならないのです。
いわば「3.11以降の食の安全」の保証、この問題について、次回も続けてもう少し考えてみたいと思います。