原子力規制庁の権限 | お手伝いさんたちのブログ

お手伝いさんたちのブログ

中部大学 武田邦彦先生のブログの中で、音声収録のみのものをテキスト化して掲載しています。
テキスト化及び掲載にあたっては先生から許可を頂いています。

原子力規制庁の権限 (10/5)



原子力規制庁の権限について、政府(戦略室大臣)、規制庁(委員長)の意見が違うように報道されています。またテレビでは「政府はお殿様」という考え方でコメントされています。



・・・・・・ここから音声が中心・・・・・・



日本が原子力を実施するときの国民との約束は、

1)「自主・民主・公開」の原則を守る、

2)平和利用に限定する、

3)原子力委員会が推進、原子力安全委員会が規制に分ける、

4)政府は委員会の勧告を守る役割、


ということです。



もし今、議論されているように「規制庁が危険という判断を出しても、政府がそれを覆して運転を認めることがある」とすると、それは政府がお殿様であることになります。「政治的判断」が万能のように言われる社会は、日本の裁判をもゆがめています。



民主主義は手続きを決め、それを守るのが政府で、「政治はなんでも決められる」というのは民主主義ではないと思います。政府はお殿様としての万能の力を持っているのではなく、国民の間の約束(法律や役割)を守らせる役割しか持っていません。政府は「違法なこと」はできないのです。


(平成24年10月5日)



--------ここから音声内容--------





原子力規制庁ができまして、色々な報道がされております。政府側は戦略室大臣、それから規制庁側は委員長がそれぞれの考えを言い、それがまぁ違ってるという風に報道されておりますが、これはあの、組織が新しくできたわけでありますから多少の意見の違いがあった方が正常であるという風にも言えると思いますが。テレビのコメントを見てますとですね、相変わらずあの、政府はお殿様であると、お殿様意識が強いようですね。





私あの、原子力でよく言うんですけども、日本では原子力反対運動つうのが激しいわけですが、それは原子力をやるかやらないかという時に民主的手続きを踏まなかったからという風に考えられるわけですね。フランスで原子力反対運動が少ないのは・・・フランス人に何で反対運動が少ないんですか?って、「いや、まぁそりゃ我々が決めましたから」ということですね。国民が決めれば、それに大体は従うということが民主主義の原則であります。





その代わり、少数意見に配慮するというようなことも大切なわけですね。ま、日本では少数意見をバッシングするっていう・・・少数だかどうか判りませんが、自分の考えと違う人をバッシングするっていうことがあるんですが。自分の考えと違う意見は尊重しなければいけない、とこれが民主主義であります。





ええと、日本が原子力を実施するに当たっては色々揉めたわけですね。それは日本に、広島、長崎の原子爆弾を落とされたということで、原子力と日本はですね、やっぱりあんまり近づかない方がいいんではないかという意見が強かったわけであります。それに対して、政府が約束した、もしくは国民が約束したのはですね、「自主・民主・公開」の原則を守るんだということですね。





この前の福島の秘密会議なんかは法律違反で、逮捕されると思いますけどね、検察がしっかりしてれば。それから平和利用に限定するっていうことですね。それから原子力委員会っていうのが推進側を担当し、原子力安全委員会が規制をやると。これは、原子力安全委員会という名前がついてても原子力規制庁でも何でも良いんですけども、規制庁っていう役所がですね、担当するのは良いかどうかっていうのはまぁほんとは議論があるべきで、ここで我々原子力の安全を考える人たちは役人の陰謀に引っ掛かったかもしれませんけどね。





それから政府は委員会の勧告を守る立場であって、政府が独自に判断するわけではないんですね。例えば、「規制庁が危険だという判断を出しても、政府がそれを覆して運転を認めることがある」なんてことするとですね、いや、これは『政府はお殿様だ』ってことになりますね。現在、「政治的判断が万能である」っていう風によく言われることがあるんですね。「これは最終的に首相が決めるんだ」 「いや、これは最終的に大臣が決めるんだ」いや、これはですね、役人が使う手段ではありますけども、これはあの私は民主主義とは違うと思いますね。





民主主義つうのは手続きがきちっとしてるわけですから、私たちの代表の国会が決めたことを政府が守るわけですね。決まってないことを臨時に政府が決めるってことはあるにしてもですね、基本的には国民が決めるわけです。国民が決めるっていうのは、国民の代表である国会が決める、とこういうことですね。




ですから、決まったことを守るのが政府であってですね、政府が決めるんではないわけです。従って、今みたいに政治的判断が万能なようなことを言いますとね、政府が勝手なことをやるということになるんで、官僚がますますつけあがると、まぁこういうことになるし、最近の裁判を見てますとほとんど国が勝ちますね。それは国がやったことは正しいんだ、国は判断できるんだという、そういう前提が裁判官にもあるということと、裁判官の人事が政府に握られてると、この2つが大きいと思います。





ところで、民主主義は手続きを決めてそれを守るというのが政府でありまして、政府は手続きを守る役割を果たしてるわけで、手続きを覆すことはできません。私がよく言ってるように、1年1ミリシーベルトとかですね、廃棄物は1キログラム100ベクレル以下とこういうように、決まってるものを一所懸命守るのが政府ですね。で、政府がこれ守れないからと言ったら国会がですね、「そいじゃしょうがないから、変えようか」と、これは手続きとして良いんですね。





ところが、大体テレビなんか見てますと、コメンテーターどうも政府が殿様だと思っているんですね。これは自分が殿様だと思ってる人もいるぐらいなんですよ、マスコミではね。「どうせ庶民はバカだ」とこういう風に思ってるわけで、仕方がないというか、ま、そういう人たちだってことですね。





やっぱり国民の間の約束、これはまぁ法律とかそれぞれ、この人はこういうことやるっていう役割を決めてるわけですから、政府は違法なことはできません。法律の方が政府のもちろん上にあるわけで、公務員というのはですね、法律をきちっと守って、国のために、日本国の発展のためにやるというのが、もうほんとに基本中の基本、公僕ですからね。





まぁこれは原子力規制庁の場合どういう風にするかっていうと、結局新しい原発の安全をですね、電力会社が申請をしてきますから、それを国民の代わりに厳正に審査をしてですね、危なければダメですとこう言うわけですね。例えば、アメリカの規制庁もそうですけども、「この原発から出てくる廃棄物をしまう所を決めてからにして下さい」とこう言うわけですね。それがどんなに非現実的であるかどうかということは規制庁は関係ないんですね。「廃棄物をしまう所なきゃ危ないじゃないですか」とこういう風に言う。これが原子力に関する国民の間の約束ですから。





まさか政府がですね、原子力やる・やらないというのを決められるわけではないとこういうことですね。国会ができるのは、「日本国として安全な原発はやる」と、「やっても良い」っていうのを決めるのはこれは国会なんですね。全体としてですよそれは、個別じゃなくて。個別じゃなくて、全体の原発を安全ならばやると、これは安全ならばというのが、さっきの規制庁の存在なんですけども。「安全ならばやります」という風なことを今は決まってるんですね、これは決まってる。じゃあ、原子力発電所が安全かどうか?っていうことを判断するのは規制庁で、これ規制庁が判断したら、もう政府はそれは覆せないんですね。これは法律ですから。





で、国民が今原発反対運動やってますけども、反対運動が成功するってことは、「日本は、安全でも原子力発電所はやりません」っていうことを国会で決めるってことですね。そこまで持っていかないことには何の役にも立たないということです。


(文字起こし by 緊急助っ人)