福島県「秘密会議」の違法性と検察 | お手伝いさんたちのブログ

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中部大学 武田邦彦先生のブログの中で、音声収録のみのものをテキスト化して掲載しています。
テキスト化及び掲載にあたっては先生から許可を頂いています。

福島県「秘密会議」の違法性と検察 (10/4)




(この記事は音声が主体です)



福島県が主催した「県民健康管理」の秘密会議は、税金を払っている私たちが主人なのか(民主主義)、それとも秘密国家なのか、疑わしい問題を正面から提起しました。また、この問題の明らかな違法性は、



1)原子力基本法で定める「自主、民主、公開」の原則に反すること、


2)医師の倫理に反すること、


3)福島県の役割に関する公務員倫理法違反、
にあると考えられます。つまりハッキリした犯罪行為であるということです。



しかし、秘密会を計画した県、およびその委員会に出席した委員の人は「自分たちが正しい」という「確信犯」なのです。それは間違ったエリート意識、パターナリズムで「この道路は80キロだが、俺は偉いから時間を損失するのは国民の損失だ。だから俺は160キロで走る」という論理と同じです。




ところで人間は「自らが意識している不当性」を間接的に指摘されると、その人は猛烈に反撃をします。それは自らの違法性、不当性にすでに気がついているからです。特にエリートは常に自己矛盾に気がついていますから、自らが意識している不当性についての防御能力が高いのです。


(平成24年10月4日)





--------ここから音声内容--------





先日、福島県が催した秘密会議ですね、これは内容は県民健康管理という秘密会議なんですが、実にこの県民健康管理という言葉の響きと、秘密会議という言葉の響きはですね、ずいぶん違います。税金を払って私たちは自治体、県とか市に何をやってもらおうとしているのか。例えば県民の健康を管理するならですね、その検討の推移とか、どういう人が選ばれて、どこでやるのかというのが完全に透明でなければなりません。県民の健康管理を秘密にするということはですね、考えられません。もちろんですね、個人の健康の管理の結果をですね、公表することはできませんが、どういうことをやっているのかということ自体も秘密であるということになりますと、まさに秘密国家であります。





特にこの原子力の場合にはですね、問題は明らかに違法でありまして、まず一つには原子力基本法で定める、「自主・民主・公開」という原則に反することですね。私は原子力の世界に入ってこの「公開」ということが守られているということに、大変に誇りを持っておりました。日本は原爆を落とされた国として、原子力をやることには反対が強かったわけですね。この反対を説得するいうか、納得するために原子力をやる時には必ず「自主・民主・公開」でやるということを決めたわけです。





今度の県民健康管理はですね、明らかに一般的な県民健康管理じゃなくて、「被曝とガンについてを検討する県民健康管理」ですから、原子力基本法の仕事の範囲に入ります。





二番目は、参加された方の幾人かが医師でありましたが、医師にはちゃんと守らなければならない倫理があります。その倫理の最も大切なことはですね、「不特定多数に忠誠を尽くす」ということであります。お医者さんが、ある病院に属していて、そこに理事長がいてですね、その理事長が「高い薬を使え」とか「患者に過剰な注射をしろ」というふうにもし命令したとしても、そういう命令に従ってはいけないのが医師であります。医師というのは独立して社会で活動するためにですね、たとえ両足を切断するようなことがあっても、医師は傷害罪に問われないという特殊な立場にあります。





今回、秘密の会議をやるということは、お役人からたびたび聞いてたわけでありますから、その時点でですね、医師は委員をやめるべきでした。もしこの時に医師が委員を辞めないということはですね、その医師が医師の倫理を守れないということを意味しますので、患者さんに対しても「理事長が言ったから高い薬を飲ませる」ということをする医師であるということが明確であります。





それから福島県のお役人は当然、公務員倫理法違反であります。公務員の倫理法についてはですね、自治体に行きますとそれがよく壁に貼ってありますが、その倫理法の一つ一つについてここに説明しませんが、このような健康管理の業務について、それを秘密会議にすると、それからもう一つは被曝はガンに関係ないという結論を口裏を合わせるなどというのはですね、これは詐欺だとか騙しとか、そういったものに類することでありますので、非常にはっきりした犯罪行為であります。





だけどですね、この問題の難しい所があります。これはですね、実は秘密会を計画した県、もしくはその委員会に出席した医者を含めた、いわゆる世の中の偉い人ってのは、実は確信犯なんですよね。どういう確信犯かっていうのを例えでいいますと、「この道路は80kmの制限だけれども、俺は偉いから時間を損失するのは国民の損失だ。だから俺は160kmで走る」というような論理と一緒なんですね。





つまり「私たちは別の人間なんだ、貴族なんだ」と、こういうふうに確信しとりまして、庶民はですね、貴族の考えてることを理解させる必要はない、理解もできないという、基本的に非常に強い信念があります。この信念はですね、すべてにおいて通用しとりまして、現代の日本を非常に暗くしている一つの原因になっています。





私はですね、実は原子力をやったことによって、「公開」というのを学び、公開しても不都合がないということを学びました。むしろ公開すれば公開するほど、みんなの意見は統一しがちでありまして、またいわゆる強固な反対派というのもいなくなります。強固な反対派というのはですね、これは実施側が隠すことによったり、実施側が不当なことをやったりすることによって、まさに鏡に映った自分の像のようなものであります。





これはですね、私をバッシングするような人の場合の一部に見られることなんですが、自らが意識している不当な…自分の不当性というものをですね、間接的・直接的に指摘されますと、その人が猛烈な勢いで反撃をしてきます。このことはですね、「あぁそうか」と私いつも思うんですね。相手の人が猛烈な勢いで反撃した時に、「ああ、なるほど、あの人は自分の違法性、自分の不当性にすでに気がついてるんだな」ということに気がつきます。





そうすっと、自分が不当であるということはかすかにわかっていながら、それを間接的・直接的に指摘されるもんですから、これに猛烈に反撃をします。自分が違法性がなく、正当な行為をしてるんだという時は余裕がありまして、「武田さんはそんなこと言うけども、こういうじゃないんですか」と穏やかに反撃をしてきますが、猛烈な勢いで反撃してくる人は、大概はですね「あぁ、なるほどなぁ」と思いますね。





例えば一年1ミリシーベルトというのがいい例でしたですね。一年1ミリシーベルトというのは法令で決まっとります。現在はですね、一年1ミリシーベルトの法令が間違っているんだという本が出まして、これはある程度まともなんですね。ですけど、一年1ミリシーベルトが一般人の被曝限度だということを知ってた人は、私に猛烈な勢いで反撃してきました。これはですね、自らが意識している不当性を何かの形で指摘されると行う人間の反応なんですね。





この福島県の秘密会議に出席した人、もしくは企画した人は全員が自分たちがやってることが不当であるということを気がついとります。従ってですね、おそらく自ら辞任するっていうようなことはせずに、むしろ正当性を強く訴えるんではないかというふうに思います。しかし私たちは不当な人に社会を委ねることはできません。やはり民主主義ですから、まともな人に社会を任せたいもんであります。