時事寸評 教育者のウソを止めるには (7/11)
小学校のいじめ、自殺問題があとをたちません。教育はそれが行われる社会に強い影響を受けますから、社会が活発なときには教育も活気のあるものになり、社会が沈滞するとさまざまな問題が起きます。
とくに現在の日本のように首相をはじめとして、マスコミまで「ウソをつく」、「ウソをつかない人を批判する」というような極端な状態の中で教育だけを正常に行うのは至難の業です。
たとえば「約束を守りましょう」と教えようとすると「首相だって約束を守らないじゃないか」と言われますし、「しっかり勉強して偉くなりましょう」と言っても、「偉い人」の具体的な例を挙げることも難しいという状態です。それに「ウソをつかなかったから、事態がこじれたではないか!」マスコミがたたくことも頻繁に行われます。
その中でも原発事故からズッと驚くことが多かった日本の教育界で、子供の自殺を巡った学校と教育委員会のウソの連発は目を覆うばかりです。今日(2012年7月11日)の朝のニュースでは大津市教育委員会、大津市長のミスを盛んに報道していましたが、教育委員会が自殺についての「アンケートはやったけれど、記載されていたことは見ていなかった」という発表には「まだウソを言う習慣が抜けていないな」と思った人が多かったでしょう。
アンケートの内容の中でも自殺にもっとも関係の深い記述が複数あったのですから、見落とすはずもなくハッキリとしたウソでしょう。もしウソではなかったら、こんな非常識なことがどうして起こったかを説明しないと「ウソ」と断定して良いとおもいます。
このブログは「常識で判断できることは、発表などがそれと違っても、その理由を説明しなければ常識で判断したことを正しいとする」という立場をとっています。今日のようにウソを平気で言う「偉い人」がいる場合の国民の自衛手段として認められるという見解です。
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いじめや不祥事の真なる原因は社会の不正、よどみにあります。明るく前向きで、正直な社会にはいじめなどは発生しにくくなるからです。そしてその中心に「取り繕うウソ」があります。
なぜ、教育界はウソをつくのか?それを少し考えてみます。教育現場では常に「正直であれ、約束を守れ」と教えているのですから、その先生方が自らウソをつくことは考えられませんが、それが現実です。
私が本当の意味でウソをつかないようになったのは、40才ぐらいです。それまでも「大きなウソ」というのはつきませんでしたが、「こう言っておけば自分に得になる」とか、「ここは何とかギリギリでしのごう」ともがいたものです。
当時、「ウソをつく」というより、「本当のことをそのまま言う」ということに余り価値を認めていなかった感じがします。突き詰めて言うと「事実を言うことより、物事がうまくいった方が良い」という感じです。今回の野田政権の増税のように「国民との約束を守る」というより「今、財務省の言うことを聞いておいた方が良い」というような判断と同じようなものでした。
このようになるのは、
1)誠意ある人生を送ろうと思っていなかった、
2)その場が良ければ長期的なことは軽く見ていた、3)本当のことを話したらどうなるか不安だった、の3つの理由があったように思います。
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ところが、だんだんウソを言わない生活になり、今では何でもそのまま言います。そのために、
1)自分のことはそのまま言う、
2)社会の事もそのまま伝える、
3)自分以外の個人(公的な人は別)のことはできるだけ「その人」とわからないように言う、ということを守っています。
とくに、
1)相手が回復できないこと(性別、育ち、所属、職業、生活の場所、家族、年齢など)は言わない、
2)相手が反撃できなければ言わない、という2つを厳密に守っています。
さて、そのような制限の中で「そのまま言う」という生活をしてみると実に快適でした。なにしろ「前はどう言っただろうか?」とか、「どういうのが有利だろうか?」、「これを言ったら酷い目に遭うのではないか?」などはすべて無く、心のままに言うので快適です。
そして、そんな生活はさらに私に宝物をくれました。それは「いつも心のままに言っても人に好意を持たれるためには、心を綺麗にしておかなければならない」ということを知ったからです。
それからというもの、「自分の考えも正しいかも知れないが、自分と正反対の考えも、同じく正しい」という私の信念や、「自分が考えていることは間違っていることが多い」ということにも気がつきました。
このような経験の中で「本当のことをそのまま言ったらどうなるのだろうか?」という恐怖はすっかりなくなり、人から「武田さんは、あまりにそのまま言う」と言われるようになりました。
このような生活をしていると、「ありのまま」でも「人の信頼を得る」という生活ができるようになり、その結果、ますます「ウソをつく必要がない」という自分になったのです。
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今回の自殺の問題で、私が教育委員会にいましたら、アンケートも含めてそのまま発表したでしょう。そして、それによって咎を受けるならそれはそれで、受け入れたと思います.その方が長い人生では自分の命を大切にすることになると、テレビに映っていたご年配の教育委員の先生にお話をしたかったと思いました。
「教育関係者、先生方、ウソをつかないでそのまま言ってもそれほど怖いことはありません。自分がしたことは仕方が無いので、それを受け入れる方が悔やみもなくなります。」 政治家は余りに周囲がウソで固まっているので、傷が深いのですが、せめて教育界からウソのない社会を作ってもらいたいものです。
ただ、この問題は「学校教育と保護者の関与」という面で、「学校と親が一緒になって教育をする」という視点でも考える必要があるでしょう。
(平成24年7月11日)
--------ここから音声内容--------
教育界でのですね、「いじめ」とか「ウソ」…自殺っていうのが続いてるわけですが。ま、これはあの、教育というのはですね、それが行われる社会というものの影響を強く受けるわけですから、このようにですね、社会が沈滞してる時には、さまざまな教育上の問題で困るわけですね。
特に現在、日本のようにですね、首相が「露骨なウソをつく」、もしくは「約束を破る」、マスコミがですね「ウソをつかない人を批判する」。「ウソをつく人を批判する」んじゃなくて、「ウソをつかない人を批判する」。「お前はなんて正直なんだ、それはダメだ」っていうようなですね、そういう中での教育っていうのは非常に難しいわけですね。勿論、具体的に子ども達にどう教えるのか?というのも非常に難しくなるという奇妙な世の中になるわけです。
特に私は原発事故から教育界の対応をずっと見てましてですね、「なんていう教育界だろうか」というふうに思いましたですね。「法律」で「1年1ミリ以下」と決まっているにもかかわらず、一番被曝の感度が高いと言われる子ども達をですね、相当被曝させるというようなことが続いたわけです。
今日(2012年7月11日)の朝のニュースを見てますと、大津市で起こった自殺問題でですね、教育委員会と大津市長のミスを盛んに報道しておりました。教育委員会はですね、自殺についての「アンケートはやったけれども、記載されたことは見ていなかった」という発表がありまして。それはまぁ、あまりのことにテレビのコメンテーターもですね、「それは違うんじゃないか」ってなことを言っておりましたけども。まぁ「ウソ」と言った方がよかったですね。ハッキリとコメンテーターもですね、「これはウソと考えられますね」と、「普通だったらウソですね」と、こういうふうにですね、やっぱり言うべきだろうと思いますね。
私はこのブログではですね、「常識で判断してできることで、発表などがそれが違ってたら、その発表を説明しなければ、常識で判断したことを正しいとする」という立場をとってるわけですよ。なぜかって言いますとね、これほどウソが多いとですね、発表されたことをもとに考えるっていうわけにはいかないんですよね。もう「これはウソだ」と言わざるを得ないんですよ、ええ。
まぁそういうことで、今の国民…日本の国民はですね、「偉い人」が言うことでも、「常識で判断しておかしいことは、これはウソではないか?」ということで考えを進めないとですね、それをもとに進めてると、「ウソと言うと悪いから」とかですね「ウソという言葉は嫌いだから」ということが言えない状態になったと思いますね。で、なぜ教育界がウソつくのか?ということを少し考えてみますと、教育現場では常に「正直であれ」とか「約束を守れ」っていうことを生徒に教えてるわけですから、その先生方が自らウソをつくとは考えられないわけですが。
私はですね、本当の意味でウソをつかないようになったっていうのは、40(才)ぐらいだと思いますね。それまでも「大きなウソ」とか、「犯罪になるようなウソ」はつかなかったですけども、「こう言っておけば自分に得になる」とか、「ここはギリギリこれで言い訳しとこう」ってなことはですね、やっぱりありました。当時なぜそういうことをしたか?というとですね、「ウソをつくのがいい」っていうわけじゃなくて、「本当のことをそのまま言う」ということに余り価値を認めていなかったわけですよ。っていうのはまぁ、「事実を正直に言うよりですね、物事がうまくいった方が良いんだから、まぁいいや」という、まぁそういうやつですね。今の例えば、野田政権(の増税)で言えば、「国民との約束を守る」というよりも「今、財務省の言うことを聞いてた方が良いや」と、まぁそういうことですね。
で、私の…自分の気持ちを振り返ってみますとですね、一つには、「誠意ある人生を送ろうと思ってなかった。誠意ある人生に価値があると思ってなかった」ということがあるわけですね。「その場が良ければ長期的なことは軽く見ていた」っていうこともありますね。「ここはこう言っとこう」ってことですね。それから、一番大きな理由はやっぱりね、「本当のことを話したらどうなるか不安だった」っていうのがあるんですよ。やっぱりそのまましゃべったらですね、「自分が非常に評価が低くなるんじゃないか」とか、「かえって周りがギクシャクしちゃうんじゃないか」とか、そういうですね、「本当のことを話すのが怖い」って言ったらヘンなんですけど、そういうのがありましたね。
小さなウソが生活の中に取り込んでしまうわけですね。で、今度の教育委員会もそうですけども、おそらく日頃からそうなんですよ。「これはこう言おう」とか、「あれはああ言おう」ってことだけに議論が集中して、それで「本当にどうするか」っていうことが疎かになってたように思いますね。
で、だんだん、しかし私は改善されてですね、「自分のことはそのまま言うんだ」と。「社会の事もそのまま伝えるんだ」と。ただ、「(自分以外の)個人的(公的な人は別)なことはあまり言わないというか、(できるだけ「その人」と)分からないように言うんだ」ということを原則としているわけです。そして特にですね、「相手が回復できないこと…性別とか、育ちとか、所属とか、職業とか、生活している場所とか、家族、年齢などは言わないようにする」。それから、「相手の力が弱くて反撃できなければ言わない」という2つを非常に厳密に守っております。
私は自分がバッシングされるのはそんなに平気なんですけども、私のバッシングの中にですね、よくあるんですよ、「どこの大学に所属してるんだから、こうだ」とかですね、「あいつはこうだ」とか、そういうですね、私に…武田という個人に対する批判が結構あるんですよ。私はね、自分が言ったことが不適当である…例えば、「『1年1ミリシーベルト』っていうのは法律で決まっていないのに、武田は法律で決まってると言う」とかですね、こう言ってくれればですね、私も調べて見直したりできるんですけども、私がですね、「名古屋に住んでる」なんて言われてもですね、それはすぐ生活を変えるわけにいけませんし、第一言ってることと全然違いますからね。
ある人がですね…まぁ口の悪くて有名な人なんですが、「よくしゃべる人はウソをつく」とかですね、「信用できない」とか言ったことがあるんですね、なんか山形の人だったかな? で、私ね、ちょっとね、「あれ?そしたらどうするの?」って感じですよね。内容と関係無いじゃないってやつですね。ま、ところで、「そのまま言う」という生活をしてみますと、実に快適になってきてですね。なにしろ「前はどう言ったか?」っていうのも関係ありませんし、「どういうのが有利だろう?」ってことを考える必要もないし、「(これを言ったら)酷い目に遭うんじゃないか?」と心配することもない。ということなんで、全く良いわけですね。
で、気楽になったのと同時にですね、私に宝物をくれました。それはですね、「いつも心のままに言っても人に好意を持たれるためには、心自身を綺麗にしておかなきゃいけない」ということを知ったわけですね。その「心自身を綺麗にする」ってことはどういうことだったか?っていうと、「自分の考えも正しいけれど、自分と正反対の考えも正しい」と思うようになれましたし、「自分が考えていることは間違っていることが多い」ということにも気がついたわけです。
そうすると、人との喧嘩も少なくなります。何言われてもですね、腹もあんまり立ちませんしね。「相手の考えも正しいのかな?」と思ってますからね。そういうのは別にどうってことはないんですね、ええ。で、だんだんだんだん、「本当のことを言ったらどうなるのだろうか?」っていう恐怖心が無くなりまして、人から「武田さんは、あまりにそのまま言うんだけど平気?」なんて言われるようになったわけですね。
あのー、なんでも自分のヘマだったらヘマをそのまま認めるというようなことも出来るようになって、「すいません」と、「こうしました」というようなことを言うようになった。だけど、「すいません」もあんまり言わなくなりましたね、ええ。そのまま言いますから、仕方がないということですね。それで現在では、まぁ年の功もあって、「ありのまま」でも「人の信頼を得る」ということがきるようになって、ますます私は「ウソをつく必要のない」自分になってきたという感じがいたします。
私がもし今度の問題で、大津市におりましたら…その役におりましたらですね、アンケートそのまま発表したでしょう。もしその中に自分の不利な点があったらですね、その咎は咎で受けて、もしも教育委員会を去らなきゃなんなかったら責任をとって去るというふうになったと思います。私はおそらく私の先輩であり、また社会的にも偉い人だと思いますが、テレビに映っていたご年配のですね、教育委員会の先生に「あなたウソつかない方がいいんじゃないですか」と、「アンケート読まなかったなんて言わない方がいいんじゃないですか」と、「『読んだけども、これを公表すると具合が悪いと思った』と、そのまま言われたらどうでしょうか?」と、「ウソをつかないでそのまま言っても、それほど怖いことはありませんよ。自分のしたことは仕方がないので、そのまま受け入れた方が後で悔やみもありませんよ」と、ちょっと偉い先生に言うには少しこう躊躇しますけどね、やっぱりそういうふうに言いたいと思うんですね。
政治家の場合はもうちょっと傷が深いんですよ。あまりにも周囲にウソがあるので、「どのぐらいのウソがいいか?」ってもうバランス感覚が無いんですね。そういうことで、今回のことではそれを強く感じました。
それからですね、今度の問題は「学校教育と保護者の関与」という意味で、やはり「教育は学校と親が一緒になって行うもの」ですので、今度はちょっとですね、世論の動きが「学校だけを批判する」というふうになってるのが気になります。これは今までもそうなんですが。勿論、学校教育は重要なんですが、保護者がどのように子どもの教育に関与…(ここで音声が途切れていました)
(文字起こし by haru)