タバコ第2弾・・・タバコと被曝(1) (3/23)
タバコのことを今、このブログに出すことは私にとって「損」かも知れません。でも、現在の日本の闇は一つ一つのことに自分の信念ではなく「損得」で決めることから来ているように思います。
私は「これを言ったら損だ」などはまったく考えません。自らの学問的な信念に基づき、この時点で明らかにしなければならないものは、どんなに不利が予想されてもやる必要があります。それが学問というものです。
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「危険」というのは、状況によって変わります。一つは「自分の意思で自由に危険を冒すもの」で、もっとも過激なのは「冒険」です。なにしろほとんど成功の可能性がなく、遭難の危険性が高い「***の最高峰で未踏の山」に挑戦することすらあるからです。かつて世界最高峰のエベレストに挑むなどがそうですが、それを成功させたときの賞賛の大きさは、危険と隣り合わせだからこそです。
このような「自分の意思で危険を冒す」ものでもっとも危険なものはハンググライダーだと10年ほど前のイギリスの本で読んだことがあります。
これに対して、自分の意思ではない危険があります。歩行者の交通事故、原発からの被曝などがそれに当たります。また自然災害も広い意味ではこれに当たります。つまり、1)自分が自らの意思で行って自らが危険になる、2)他人の意思で行われているもので自分が危険になる、という2つがあります。
さらに、1)は、a)全くの趣味で行い自分が危険になる・・・(登山、ハンググライダー、タバコ、お酒など))、 b)社会的要請があり、それに応じることによって自分が危険になる(消防士、原発作業員、危険な地域に向かうボランティアなど)、 c)腐っているかも知れない食品を自らの意思で食べておなかを壊すなど、があります。
難しいのは、2)で、A)自分の意思ではないが自分がメリットを受けているもの(自動車事故:たとえば自分は歩行者で自動車を運転しないが、車で配達される宅急便を利用したり、大量に車で輸送されるスーパーの食材を買うなど)、B)代替え手段があるが社会的合意でメリットを優先して危険を甘受しているもの(原発に代表される。電気をもらう代わりに1年1ミリの危険を受ける)、C)本人にメリットも何もないのに被害だけを受けるもの(タバコの副流煙、隣の騒音など) があります。
タバコを吸う人の危険性は、1)のa)、つまり自らの趣味で自ら危険のある行動をして、治療など他人の世話になるものに分類されます。ところがタバコを副流煙で被害を受けるのは、2)のC)、つまり本人になにもメリットが無いのに被害だけを受けるというものです。
この2つの危険性をどの程度に見るかというのは学問的に良く研究されています。私が勉強したものでは、意思100倍、メリット100倍という感じです。つまり、自分の意思で行う行為(タバコを吸う)と他人がやって自分にはメリットもない危険(副流煙)は「危険を感じる感度」に1万倍の差があることを示しています。
タバコを吸う人が「副流煙など騒ぎすぎだ」と感じ、タバコを吸わない人が「臭くて危険でタバコは困る」と反感を感じるのは、「意思とメリット」の関係ですから、両方とも正しいのです。
もし、喫煙する人は「副流煙で苦しんでいる人は自分たちの1万倍の感度だから、気をつけなければ」と思い、副流煙で苦しんでいる人は「喫煙者は悪げはない。自分の好きなものを吸っているのでどうしても感度が鈍い」とお互いに思って気をつければかなり感情的な対立は減るように思います。
被曝もそうで、健康な成人男子で自分の意思で原発に勤務し、それでお金(給料)をもらっている人の被曝限度が1年20ミリシーベルトまでですから、病気がちの子供(その親)で、石炭火力の電気で生活ができるのに、原発が事故を起こして強制的に被曝させられる時には1年1ミリシーベルトでも危険に感じるでしょう。
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タバコの問題にしても、被曝の限度にしても、今、日本で議論されているのを見ると「相手の立場になっていない」ことを感じます。たとえば、1年1ミリは厳しすぎる、オーバーだと言っている人の多くは、「私はビジネスをしているので電気がいる」という経団連などの人もいますが、その人は「原発の電気を使うと電気代が節約できる(怪しいが)」というのですから、原則的にはお子さんの被曝を心配するお母さんに比べると、同じ被曝でも危険性が100分の1に感じられているのです。
この傾向は全体的にもあり、日本の経済発展のためには原発は必要だと考えている人は1年1ミリのことも、瓦礫のことも「そんなのは危険では無い」と感じ、お子さんをお持ちのお母さんは「危険」と思うのは、人間の心の動きとしては当然でもあるのです。
このような問題の解決は「相手の身になって議論する」ということであり、自分が正しいと思うことも、相手の身になって考えれば別段、不思議なことではない場合が多いということです。このように危険と言うものはかなり複雑で、その規制値も専門的な基準になっています。
まして、原発の被曝の危険性が、タバコをすう危険性に比べて小さいなどということを言う専門家もいますが、あまりに浅い議論です。さらに、「寿命が来てガンで死ぬ人に比べれば、被曝でガンになる可能性は・・・」などという比較はさらに難しいことが判ります。自然死に対して、「他人から強制されて死ぬ(殺人か殺人の類似)」の場合は、全く人の感情が違うのです。
我が子を失う場合でもやむを得ない病気の場合と、残忍な殺され方をした場合と、同じ心理状態にいることはできません。指導的立場にある人、専門家、自治体の首長、職員は危険に関する感受性について、もっとよく考えて発言することを望みます。法律の罰則や規制値などは病気になる確率などが基本ですが、それにこの感受性も加味して決められています。
(平成24年3月23日)
--------ここから音声内容--------
えー、このブログでですね、タバコのことを盛んに取り上げてるわけですね。タバコを取り上げるというのは一番不利なことなんですよ、実は。あの、バッシングも一番強いんですね。それから、お医者さんはお医者さんのご意見がありますし、ま、タバコの煙で咳が出るって人から言えばもう、けしからないことですし、一方、タバコを吸う人もまた言い分があってですね、非常に感情的ですから、えー、これを取り上げるのは「損」ではありますが、私はですね、学問的に言う、と。常に「損得」を考えないっていうことによってですね、ま、自分のスタンスをきちっとしてるというとこ、まー、ありますので、ちょっと我慢をして頂きたいと思いますが。
実はですね、タバコを吸うと肺ガンの危険があるとか、副流煙を吸うとどうなる、というのはですね。これ実は状況によって変わるんですね。人の健康は同じですけども、感じ方が違うんですね。大きくは二つに分かれるわけですね。えー、一つは「自分の意思で自由に危険を冒す」っていうのがあるんですよ。こんなこと人間が普通はするはずないんですが、あるんです。これは「冒険」ですね。
えー、例えば、ほとんど成功の可能性が無くて遭難の可能性が高い、えー、「未踏の山の何とかの最高峰」なんていうのを挑戦すんのは、非常に危ないわけですね。ま、かつては世界最高峰のエベレストに次から次と挑んで挫折し、中には亡くなり、ついにヒラリーとテンジンが征服するという、そういう歴史があります。えー、これが大きく賞賛されたのはそれが危険だからという、非常に人間の活動の矛盾したところがあるわけですね。
で、ま、私が今までずっとこういったものを勉強してきた中ではですね、何かハンググライダーっていうのが一番そういうもんだっていうことで。ま、ハンググライダーの愛好者は、ちょっとカチッとくるかもしれませんが。まぁあの、十年ほど前に、そういう非常にきちっと書いたもので、「人間が自分の意思でやって危険を冒す、一番危険なものはハンググライダーだ」と書いてありましたけど。ま、いろんな研究がありますからね、それが正しいとか言うんじゃなくて、ま、そういうもんですね。
これに対して、自分の意思ではない危険があります。例えば、自動車を運転しない歩行者の交通事故とか、ま、今回の原発からの被曝なんか、それに当たりますね。自然災害については、これはどういうふうに分類するかということは、まだあまり研究されてませんが同じことですね。つまり危険というのは、1)自分が自らの意思で行って自らが危険になるというものと、2)他人の意思で行われるもので自分が危険になるという、2つあるっていうことが分かります。で、この1と2は更に3つに分かれますね。
1)は、a)全くの趣味で行い自分が危険になるっていう、登山とかハンググライダーとか、タバコとかお酒ですね。これはまぁ、生活に必要だって言えば生活に必要かもしれませんが、まぁちょっと生活にどうしても必要だと言いにくい、だけど自分としてはどうしてもやりたい、と。まぁ、こういうもんですね。自分が危険になるっていうことですね、これ。タバコの場合は、タバコの吸った煙ですよ。お酒もですね、飲んでお酒のくさい臭いが周囲に行くって、こういうことじゃなくてですね。
b)それから社会的要請があって、それに応じることによって危険になる。これは消防士なんて典型的ですね、原発作業員、それから危険な地域に向かうボランティアなどがこれに当たります。
c)それから、えー、ま、全くですね、ええと自分だけっていうのがありますね。ええとですね、例えば腐ってるかもしれないものを自分の意思で食べて、自分でお腹こわすっていう、これまぁ自分の意思であることは間違いないですね。こういうものがあります。
2)ところが、やや解釈が難しいのは2番のですね、ものなんですが。
A)自分の意思ではないが、自分がメリットを受けてるものがあるんですね。自動車を運転してない人の自動車事故の危険性なんですよ。これはですね、「何だ、俺は自動車を運転してない!」って言うんだけど、車で配達される宅急便を利用したりですね、スーパーに行きますと、やっぱこれもトラックが運んでくる食材を買うとか。それはまぁ、買わざるを得ないと言うかもしれませんが、やっぱりもしもトラックが無ければですね、ものすごく遠くのものを高く買わなきゃいけないってことあってですね、これメリットを受けてるわけですね。
B)それから代替手段があるんだけど、あの、社会的合意でまぁ、そっちやろうやとなってるもの、これは原発が一番まぁ極端な例なんですが。原発からの電気を貰うから、えー、石炭火力発電所を作っても良いけども、まぁそっちの方が良いからってんで、1年1ミリの被曝の危険を受けるっていうやつですね。
C)そいからまぁ、本人には何のメリットも無いのに、ただ被害だけ受けるものっていうのは、タバコの副流煙、隣の家の騒音なんかありましてですね、度々問題になります。つまり1番には1-a、1-b、1-cとあって、えー、2番にもやっぱり2-A、2-B、2-Cとあると、いうことですね。
そうしますとですね、実はそのタバコの問題がもめるのはですね、タバコを吸うっていうのは1-aなんですよね。えー、自らの趣味で自らの危険をこう…やるという。で、まぁそういうことですね。で、まぁ治療をするのはやっぱり、例えば肺ガンになったら治療するっていうのは、他人の世話になるっていう、ま、こういうものですね。ま、これはあの、冬山登山なんかも一緒なんですね。冬山登山をすれば、遭難すれば人の世話になりますし、もちろん死にかければ、それはまた病院に担がれるってことになりますからね。
えー、ところが今度はタバコの副流煙をですね、もう1-aじゃなくて、2-Cになっちゃってですね、本人何にもメリット無いのに、被害だけ受けるっていうふうなものなんですね。ですから意見が分かれるんですよ。で、こういったあの、まぁボランタリーとアンボランタリーって言うんでしょうかね。えー、要するに自分の能動的にやるものと受動的にやるものの差はどのくらいか? それからメリットがある場合と無い場合とで、どのぐらいか?
例えば、えー、自分は運転しないけども、ええとスーパーで食材はトラックで運んできて欲しい…ま、こういう場合ですね。それからまぁ、タバコの副流煙て。これ大体ですね、いろんな研究がありますが、意思があるかないかで100倍、メリットがあるかないかで100倍ぐらいの感度があるんですね。
ですから意思があってメリットがあるという場合と、意思が無くてメリットが無いっていう場合と、1万倍も開くんですよ。で、まぁ自分の意思でタバコを吸う、えー、他人がタバコを吸って自分にはメリットが無い、というこの2つはですね、「危険を感じる感度」に1万倍の差があるということを示しております。
だから、どうしてもタバコを吸う人は「副流煙なんか騒ぐのは騒ぎ過ぎだ。大したことないから」って言いますし、タバコを吸わない人は今度は「臭くて、タバコは困る」と言ってダメなわけですね。これは単にですね、その人の「意思とメリット」の関係言ってるんで、両方とも正しいっちゃ正しいんですよ。両方とも正しいっていうのが、今回言いたいことなんですね。
私がこのタバコのシリーズで、ずーっと言ってきたことは、実はやや中心的な私の解明したいものはここにあったわけです。ほんとにどっちかが正しいってことが言えるだろうか?ってことですね。
被曝も同じです。健康な成人男子で自分の意思で働き、給料を貰うという人の被曝限度が1年20ミリに対して、病気がちの子供が、選択できるなら石炭火力発電所で電気の生活ができるのに、強制的に被曝させられる場合は、その20分の1ということになっているわけですが。そう考えますと、実は20ミリだったら(法律で決まっている)1ミリっていうのは、ちょっと高すぎるかなぁって気がしますし。えー、一般の病気がちの子供が1年1ミリなら、原子力作業員は100ミリとか1000ミリとか、ま、いう感じかなっていう気も致しますね。えー、この問題はですね、もう少し切り込んでみます。
えー、タバコの問題にしても、被曝の問題にしてもですね、私は、今、日本の議論はですね、「相手の立場になってない」わけですね。例えば、「1年1ミリは被曝限度として厳しすぎる、オーバーな話だ」と言ってる人の多くはですね、自分が電気が欲しいからという例が多いんですよ。これはまぁ、経団連の人なんか典型的ですね。えー、「原発の電気使わないと、電気代高くなっちゃうから嫌だ」と言うわけですから、これは自分の立場から見た被曝限度を言ってるんですね。
一方、お子さんの被曝を心配するお母さんは、やっぱり電気はともかくとして、とにかくお子さんを被曝さしたくないということになるとですね、まぁ上の原理を利用すると危険性は100分の1以上に感じられるわけですね。
えー、ま、あの、実際にもですね、日本の経済発展のために原発が必要だと考えてる人は「1年1ミリは大したことない。瓦礫、大したことない」って言われましてね。今度、お子さんの健康を注意してる人は「1年1ミリ守って欲しい。瓦礫は搬出して欲しくない」とこう言ってるわけで。これ、両方とも実は正しいわけですね。自分の危険だと思う感じが違うんですね。
私がまぁ、「法律で決まってることをその通りやろう」つったのは実はそれなんで。そうしないとですね、えー、もう個人個人が自分の感じる危険性で言ってたら、きりが無いんですよね。このような問題の解決は、一にも二にもまず法律があれば法律、法律が無くてもですね、「相手の身になって一応考える」っていうことですね、ええ。
自分があの…1年何ミリだとか、タバコを吸ってもいいと考えても、相手の身から考えると、やっぱり違うように見えてくるわけですね。一旦、相手の身に自分の体を置いて、考えるってことですね。規制値っていうのは、その点で非常に複雑で、どちらかと言うと影響を受けやすい人の方に焦点を合わせてる、と…まぁいうことですね。
もう一つ、えー、例えば原発の被曝の危険性をですね、タバコの危険性と比較する専門家がいるんですよ。こんなのはもう、話になんないわけですよ。タバコっていうのは1-aですからね。子供の原発の被曝は1-Cですからね、全然違いますよ。
もっと酷いのはですね、「寿命が来てガンに死ぬ人に比べれば、被曝でガンになる可能性が少ない」なんてこと、もっとこれは大変でですね。実は、人間は必ず死にます、死亡率100%ですね。ですから死亡率100%っていうのは、さっきの意思の100倍、それからメリットの100倍のもっと別のところに、自然に死ぬのはもっと100倍っていうことでですね、もっと離れてしまうわけですね。
私はまぁ、国会でですね、原子力安全委員の一人がですね、「通常のガンで、寿命が来てガンで死ぬのが30万人だから、まぁ100人に0.5人ぐらい大したことないじゃないか」って言ったことにはビックリしましたね、ほんと。何ていう理屈があるんだろうか!と思いましたね。その点では、私がタバコのことをずーっと言い続けてきたことの理由を、一応説明をしたいと言うことをもって書きました。
えー、私はですね、別にタバコがどうということを言おうとしてるんじゃなくて、やっぱりタバコの問題にしても、被曝の問題にしてもですね、えー、立場によって危険性というものが違うんだ、ということですね。えー、これはまぁ、健康という意味と、もう一つは人間の心に与える恐れっていうものもですね、必ずしも人によって同じということはないんだ、と言うことをですね、示しております。えー、またこれについては少し深くお話をしたいと思いますので、機会を見てですね。ここはここで止めたいと思います。
(文字起こし by danielle)