現代倫理論(補追) 真の正しさと役割としての正しさ | お手伝いさんたちのブログ

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中部大学 武田邦彦先生のブログの中で、音声収録のみのものをテキスト化して掲載しています。
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現代倫理論(補追) 真の正しさと役割としての正しさ


原子力作業者の被曝に関する「倫理違反」について書きましたが、実は「正しさ」には「真の正しさ」と「役割としての正しさ」があります。この問題は倫理を考えるときに大切ですので、ここで追加しておきます。


(平成23年12月30日(金))


--------こかから音声内容--------



ええと、原子力作業者の被曝に関する倫理違反というのをですね、お話しました。ちょっとこの倫理というのは難しいところがありますので、もう少し話をちょっと補追しときますが。



正しさって、何が正しいかって決まらないと倫理決まらないんですね。そのひとつとして、相手に聞くっていうのがあるんですよ。これが限定されてるんです。いつも使えるわけじゃないんですね。っていうのはあの、真の正しさっていうのと、役割としての正しさが二つありましてね。真の正しさっていうのが、なかなか判りにくいんですよ。



法律で決まってればそれでいいんですけども、法律で決まってないときはですね、神様に言ってもらうぐらいしかないんですよ。ところが神様っていうのはいつもいませんからね。だから、結局判らないんですよ。で、ある人が別の人に「これが正しいんだ」って言ったって、別の人は逆に「違う」って言うことできるわけですよ。一般の人同士ですからね、どっちが正しいか判んない。神様に聞いてみないと判んないわけですね。法律で決まってれば別ですよ、決まってなかったらいけない。だから相手に聞くんですね。




ところがそれはですね、どういうときに使えるかっていったら、役割としての正しさが決まってないときなんですよ。普通の場合ですね。「役割としての正しさ」っていうのは、例えば教室の中で私が学生に言うんですね。私が考えてることと、学生が考えてることと、どっちが正しいか判りません。そんなことは判りません。だけどもこの教室の中というのは、先生が言うことを正しいとして、この講義をやるということになってるんです。それは学生と先生の合意なんです、と。約束事なんですね。こういうのは、一杯世の中にあるんですよ。




ですから、教室ではですね、私が実は採点するんですよ。この採点というのは非常におかしなもんなんですね。つまり、先生が正しいと仮定しないと先生採点できないんですよ。これがですね、学生はこう考えてる、と。私はどっちが正しいか判らない、とかですね。学生の希望を聞いて、学生の希望が正しいなんて言ってたら、教えらんないですね。点数をつけらんないですよ。ですから教室は先生が正しい、とこうしてるわけですね。



それから同じような問題に、例えば9時半から講義が始まる、と。これ正しいかどうか判んないんですけど。9時半がいいのか、9時40分がいいのか、判らないんですけども。9時半と決めたら、9時半を遅れたら先生は遅刻と付けて、点数下げるわけですね。これもそうなんですね。これはもう全部、約束事の正しさなんですよ。




これが適用される一番具体的な例が、例えばスポーツの監督と選手ですね。選手を監督がぴゅっと代えるわけですよ。8回まで好投してた投手をですね、9回の初めにぱっと代える、と。そしたら、その投手は完投したいと思って希望してるときあるじゃないですか。監督が「代われ」と言ったら終わりなんです。これ、どっちが正しいか判んないんですよ。代えたことによって打たれることもあるし、代えて成功することもあるんです。つまり、判らないことですね。そのために監督という、役割を決めとくんですよ。試合中は監督が言うことを正しいとする。選手交代はできるんだ、と。こういうふうに、決めるんですね。




もちろん無限じゃありませんから、誰がどの役割かっていうのは決めてるわけですね。私がよく言うのは、選手側にも権利があるんですよ、と。例えばサッカーのフォワードが、ゴールめがけて蹴る時に、どの隅を狙って蹴るかっていうのは、その人に与えられてる正しさなんですよ。その人の判断で、どっちかに蹴るんですね。これ、監督がいちいち「左に蹴れ」とか「右に蹴れ」とか、普通は言わないんですね。だから、それぞれの役割の正しさなんですね。




これの、少し最近混乱してるのが、親と子どもの正しさなんですよ。これはですね、18歳になるまで子どもは親の言うことが正しいとして、育てられるんです。そうしないとですね、生まれて何が正しいか判んないんですよ。ご飯はこうやって食べる、とかね。熱いものに触れちゃいけない、とか色々あるわけですね。これをずっと親が教えていくんですね。ま、最近ですと、一人っ子が多いんで、親が子どもに我慢ってことを教えるとか、人付き合いを教えるというようなことあるんですよ。そういう時は、もう強制していいんですね。なぜ強制していいかというと、親が正しいと仮定して育てるんです。




私ね、18歳が適当か?っていう問題があるんですよ。実は15歳ぐらいにきりをつけるか12歳ぐらいにけりをつけて、例えば12歳までは親の言うことは絶対に従いなさい、12歳から18歳まではどうしなさいっていうのは、適当かもしれないんですけど、それは無いんです、今のところ。これは日本ばかりではなくて、世界各国全部無いんです。18歳なんですね。だから18歳までは、いわゆる保護者、つまり保護者の言うことが正しいと仮定するんですよ。これはね、ほんとに正しいの?って言っちゃいけないんですね。正しいことになってるんだもん、しょうがないじゃないか。とこれで終わりなんですね。




それはどうしてかって言いますとね。もう一個、踏み込んで言いますと、学生は反抗期の学生が多いですから、私説明するんですね。仮の正しさ、役割としての正しさが決まってるから、皆さんの魂は守られるんだ、とこう言うんですね。



例えば、学生ですともう二十歳とか、大学院になりますと25歳ぐらいですからね。ちゃんとした大人なんですよ。それを僕は怒るわけじゃないですか。「遅刻しちゃダメだ」とかってね。そうすると相手もムカッとくるわけですよ。そいで僕はこう言うわけですね。「何で私が怒るかといったら、ここは役割になってるんだ、と。もしもこの役割がなかったら、あなたは反論しなきゃなんないし、反論したら今度、私が成績つけるし、変なことになるでしょう」と。




だから講義というものは、役割が決まっていれば正しいのは先生だ、と決めなきゃ。もちろん先生はそこで、何をしてもいいってことじゃないですよ。殴ってもいいとか、そういうことじゃないですね。一定のルールはあるけども、そのルールの中で正しいのはどっちかということは決まってるってことなんですね。ですから原則としては、学生は先生を処罰することはできないんですよ。ただ先生は学生を処罰できるんです。




なぜかっていうと、講義の間だけはね、先生が正しいという約束のもとで行なってるんですよ。学生は未成年だけじゃないですからね。社会人もいますから。それは私と対等の人、幾らでもいるんですけど。それは、その人と外でコーヒー飲むときは対等なんですよ。講義室に入ったら、違うんですね。これがあの、仮の正しさって言いますか、「役割としての正しさと真の正しさ」の二つなんです。




従って、例えばこの頃、親が子供に「あなたは何したいの?」って聞いたりすることあるんですけど、それは聞いちゃいけないんですよ。ま、もちろん希望として聞いてはいいんですよ。だけど、必ず最終判断は親がするっていうことなんですね。それは役割なんです。



例えば、ピッチャーを代えるときですね、「まだ投げられるか?」と「投げたいか?」とか聞くのはいいんです、監督は。だけども最終的にそのピッチャーを交代させるかどうかは監督が決めて、それに文句を言っちゃいけない、と。これがですね、実は本当の正しさを守るために役割としての正しさがある、とこういうことなんですね。ちょっと難しい問題なんで、一応付け足しておきます。


(文字起こし by danielle)