永遠の9.8

永遠の9.8

イネイブラーの懺悔と対応策。
自戒の備忘録。
共依存から脱却したい人へのサンプルデータとして。

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こいつになら裏切られてもいい。

でも、そいつに裏切られて平気なわけじゃない。

その微妙な違いに気付いてもらえなかったのは悲しいね。

気付いてもらえていると思ってしまって口にしなかったのが悪いね。

うん。裏切られてもいいと思えた人に裏切られたのならそれでもいい。

覚悟はしていた。それも含めて認めないと嘘になるからね。

ただ、そう思える存在が僕の前からいなくなっただけのこと。

そんな風に思える存在は二度と現れないだろうね。

二度と思いたくないね。

大昔に学校の授業で書いた童話(?)のリメイク
 

こっちの世界の人間が知らない世界があった。
その世界は全てが平等に、世界の法則として平穏と平和が保たれている世界だった。

ある日、ある悪魔が人間の世界からその世界に降り立った。
人間の世界で多くの人間を誘惑し、不和を引き起こし、多くの人間を堕落させた大悪魔だった。
人間の世界から手を広げ、まだ穢れていない世界を乱し、堕落せしめ、支配しようと目論んでいた。

そこには"大地"がない。
大地がないので砂粒一つ分ですら高低という概念が存在しない。
そこには"中心"がない。
全ての存在が平等に点在する。中心がないので端という概念もない。
"朝"という概念を当てはめるのならば、
規則正しく同じ時間に全ての存在の真上に同じ大きさの光が生まれる。
"夜"という概念を当てはめるのならば、
規則正しく同じ時間に全ての存在の真上の光が消える。そして同じ時間に次の光が生まれる。
時折、規則正しく同じタイミングで全ての存在の上に弱すぎず強すぎない雨が降る。
常に強すぎず、弱すぎない風が吹く。常に暑すぎず、寒すぎない気候が続く。
規則正しく決まった時間に全ての存在に充分な活力を与える。
誰かから奪うこともなく、奪われることもなく。
そもそも"奪う"という概念すら知らずに成長し、活力を蓄積する。
ある程度の活力が蓄積されると平等に、同じタイミングで新しい生命が生まれ落ちる。
活力が尽きると平等に、同じタイミングで命が終わる。

地球上の人間が水が上から下に流れることを意識しないように、
太陽が東から昇ることを意識しないように、
その世界の生命は生まれてから死ぬまで変わりなく平穏が続く。
それを全ての存在は意識することはなく生まれ、生きていた。

その世界を眺めた大悪魔は悟った。

私にはこの世界の住民を堕落せしめるのは不可能だ。
この世界の住民は皆、『不足』も『不満』も感じることなく平等に満たされている。
完全に平等に誰とも比べず、驕らず、妬まず、優越感や劣等感という感情が存在しない。
比べるという概念が存在しない世界では、如何なる誘惑に満ちた甘言も理解すらされない。
私が知る限り、これよりも平和で満ち足りた楽園は存在しないのだ。


そして、悪魔に相応しくない憐憫の目で世界を見つめて呟いた。

だが、私にはこの世界の住民が幸福であるとも見えない。
この世界の住民は皆、『不足』も『不満』も感じず平等であるのが普通にして普遍である。
故に『何かを得たい』という欲求も、『何かを得られた』という満足も永遠に感じることはない。
平等に『不足』も『不満』も感じない。それがいかに幸福かということも知らず
その幸福を幸福と感じ取れず、何も求めずに生き、何も得ずに死んでゆくのだろう。
私が知る限り、これよりも緩慢にして残酷な地獄は存在しないのだ。
ログインパスワードを忘れてすっかり放置。ご機嫌いかがかな?

何事もなかったかのように、【毒親】って言葉を最近聞くようになった。
けれど、言葉だけが広がるのに反比例してその本質が薄まっているような気がする。
例えば、親が子供の素行について語る時や周囲の人が子供の素行に困っている親について語る時は、その子供のことを細分化して問題を把握・対応している。。
「暴力的な子供」「盗癖がある子供」「虚言癖がある子供」
「自傷癖がある子供」「ニート・引きこもり」…等々。
問題が細分化されているから、「何が」「どこが」「誰が」問題なのかが表面に出てくる

対して「毒親」という言葉。
「子供に暴力を振るう親」「子供に暴言を吐く親」
「子供を無理矢理レールに当てはめようとする親」
「子供の過ちを見て見ぬふりをして甘やかす親」「過干渉」「ネグレクト」
「働かない親も働けない親」「精神疾患で満足な育児ができない親」
「性的虐待や薬物依存といった触法行為に手を染める親」
全部ひっくるめて毒親
「何が」「どこが」「誰が」問題なのかさっぱりわからない。

子供にとって毒になる親。それは確かに存在するし、それが本来の【毒親】だと思う。
では、その『毒』という評価は誰から見てのもの?というところ。
最近の違和感はそれなのだと思う。
自分の意にそぐわなければ毒。自分の思い通りにならない親だから毒親。そう形容する人も残念ながらいる。
結果、耳にする言葉の意味に疑問を抱くようになっている。
言葉に疑問を抱かせるということは、言葉の本質と同時に本当に苦しめられている人の声も存在も薄めることになる。

「うちの親はバイト代を全額搾取されて必要なものも買えない」
「成績は全科目平均点を大きく上回っているのに5位以内の成績でないことを親が責める」
上の2つは紛れもない毒親に分類されると思う。

ただ、こんなケースもある。
「うちの親は給料の一部を食費に入れろと言う。親子なのに金を取ろうとするなんて毒親」
「仕事が長続きしない気持ちを親がわかってくれれば俺はニートにならなかった。俺がニートになったのは毒親のせい」
と、自分の思うようにならない部分を拒否するためであったり、今の嫌な自分を責任転嫁するために毒親という言葉を使う。比喩ではなく、実際にある。

極端な例では、どう見ても自分のワガママなのを親に叱られた不満をFBにダラダラ書き連ねて、その直下に『毒親被害』的なリンクをこれ見よがしに貼り付けてたりね。。。自分の意見が通らなければ毒ですかそうですか。って感じ。見苦しいね。

辛うじて、それらを毒親とするのならば【言いなりになって世間知らずのワガママに育てた】【脛カジリの腐れニートを追い出さずに長年飼育した】という点では毒かな。

言葉を勝手に解釈して「思い通りにならないことを親のせいにする免罪符」に使っている。
「うまい」「まずい」も「面白い」「つまらない」も全部「ヤバい」って表現するのにも似ている。
「毒親」って言葉だけが一人歩きをするようになった結果、本当に親子関係で苦しむ人の声が届きにくくなっている。

「親が毒になるケース」ってのはもちろん問題。
ただ、毒親毒親という言葉が問題なのではなく「どんな毒か」が大事なのではないか?

「バイト代を全額搾取する」紛れもない毒だろう。
「給料の一部を食費に入れろと言う」当たり前だろう?

飲んだら危険な毒もあれば触れるだけで危険な毒もある。
無害であったり有益であっても、過剰摂取で毒になる場合もある。
むしろ、100%無毒な親というものも存在しないのだとも思う。
毒にも薬にもならない親というのもまた毒だろうと思う。
それでも、自分にとって気に入らない味だから毒だ。とは言わないだろう?

言葉の一人歩きで本当の毒を隠すのは、毒の一助になっていることを知って欲しいものだね。
久しぶりに共依存にスポットを当ててみよう。

共依存・イネイブリング当事者の悩み、苦しみは語ってきた。
変えようのない現実を一人で変えようと帆走するような苦しみ。
誰にそうしろと言われるわけではなく、それが正解だと思い込む。
でも、反面ではそれが無理であることも自覚している。

共依存を砂漠にジョウロで水を撒く行為に例える人がいた。
それは言い得て妙だと思う。
水を撒く行為が正しいと思い込み、その土地がどのような状態になっているのか疑わない。
相手のおかしさがわからない。とも言えるかな。

例えば、パートナーからのDVに苦しみながらも離れようとしない人。
殴らなければいい人」「怒らなければ殴らない」「自分が怒らせなければいい」という考え。
「腹が立ったから殴る」という事実が間違いなのに、「自分が支えている相手が間違っているはずがない」と思い込む精神状態。
そして、裏返せば「支えている自分の行為は間違っていない」という精神状態だとも言える。

涸れた砂漠(暴力を振るうパートナー)に一人で水を撒いた(支える・耐える)ところで草花は育たない(結果は出ない)。
僅かばかりの木を植えても、土壌が変わらない限りは植えた傍から木が枯れる。
それでも、砂漠に小さなジョウロで水を撒き、私財を費やして買った小さな木を砂漠に植える。
撒いた傍からその水が蒸発しても、その行為がおかしいとは思わない。
水を撒き続ければいつか芽が出て緑が繁ると信じている。

まー、この辺の【まさに今、共依存に苦しんでいる人】の心理については何度か実例を交えて紹介してきた。
前置きが長くなったけれど、今回伝えたいのは【共依存の自分に気付いた人】の心理。

実はこの辺が一番苦しいのだと思う。
共依存。依存。どっぷりと依存していた対象からの離脱。
アルコール依存の人から酒を取り上げる。
薬物依存の人からドラッグを取り上げる。
いずれも、離脱症状と言う形で変調が表れる。
アルコール依存患者に関して言えば、飲酒を止めて数時間すると離脱症状が出現する。
震え、発汗、吐き気、嘔吐、血圧の上昇、不整脈、イライラ、集中力の低下、幻覚(虫の幻など)、幻聴…
それでも飲酒を止めていると、幻視、場所や時間が分からなくなる、興奮、発汗、震え…
そして、離脱症状による不快感から逃れるために酒を飲み続ける。

共依存から脱却する時にも、薬物やアルコールの離脱症状に似た感覚があると思う。
勿論、それは薬理的な作用ではなく精神的なものとしてだから、厳密には違うのかもしれない。

ただ、それまで最優先で尽くしてきた相手が間違えているという事実。
それまで必死になって間違いに尽くしてきたという事実。
間違いを増長させてしまっていたという事実を直視。

価値観の逆転。
共依存を自覚した人は正反対の価値観の狭間で揺さぶられる。
その揺らぎが離脱症状のように精神をすり減らす。

ちょっと続こうかな。
怒るのは好きではない。
怒って事態が解決するのならば有意義な怒りだろうけれど、残念ながら僕はその有意義な怒りにお目にかかったことがない。
そして、強い怒りで感情のままに反発すれば反発するほど、もっと強い力で押さえつけられるものだと学習してしまったから。
まー、交渉を有利に進めるために怒ったフリで駆け引きをすることは多いけれどね。

とは言え、どんなに忌み嫌っていても怒りの感情ってのは消せない。
そもそも怒りってのは自分に危険が差し迫った時に見せる、本能に直結した感情だと言うからね。
ただ、怒りには二種類あるような気がする。
それは、手放すべき怒り抱き続けるべき怒り

キリスト教では七つの大罪の一つとして憤怒(激情)を掲げている。関連付けられる悪魔はサタン。
そして、ローマ帝国のキリスト教詩人プルデンティウスによれば、七つの大罪はそれぞれ美徳に対応しているという。
憤怒に対応する美徳は慈悲であるらしい。

さて、国が変わってアジア圏。仏教に於いて五大明王の中心として信仰される不動明王。
誰でも名前くらいは聞いたことがあると思う。その様相はこんな感じ。

髪は怒りに逆巻き、両目はそれぞれ天地を睨む。
前歯で下唇を固く噛み締め、左右の牙を剥き出しにする。
片手に悪を断ち切る剣を持ち、もう片手には羂索(悪を縛り上げる縄)を持つ。
煩悩を焼き尽くす炎を背負い、金剛石(ダイヤモンドの原石)の上に坐して一切の衆生を救うまで動かない。


不動明王が抱く感情も憤怒
それも、文字通り燃え上がるような激情
しかし、キリスト教で罪とされている憤怒と不動明王が抱く憤怒は同じものだろうか?
そこに、手放すべき怒り抱き続けるべき怒りの違いがあるのだと思う。

前者は根本に悪意がある怒り。
後者は根本に慈しみがある怒り。

他者に対する思いやりから生じている怒りは持つべき怒り。
他者を傷つけたいという思いから生じる怒りは忌避すべき怒り。
違いは簡単。悪意の怒りはに、慈しみの怒りは行為に向けられる。
行為に対する怒りの場合、怒りの対象である行為がなくなればその怒りは消える。
人に対する怒りの場合、その人が不快な行為を止めたとしても怒りは消えない。
その人、その人に関わる者・物全てが怒りの対象になる。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い…?

少し前に戻ると、七つの大罪に対応する美徳として、憤怒に対応する美徳は慈悲だと書いた。
怒ることの反対は怒らないことではなく、慈しむこと。
慈しみ。即ち慈悲を根本とする憤怒は美徳となるんじゃないかな。

怒らないというだけでは美徳にもならない。
むしろ、怒るだけ無駄と怒らないのは徒労を避ける行為。
それは、怠惰という名の別の罪になるのかもしれない。

たまには喧嘩をしよう。
慈愛のある喧嘩をしよう。

ぶん殴り合って、互いを認め合う。
昭和の青春ドラマみたいな喧嘩をしよう。

 怒りには常に理由がある。
   ただし、その理由が正当であることはめったにない。

-ベンジャミン・フランクリンの言葉-