# これは恋ですか、それともエラーですか

 

第1話 深夜の図書館

 

 

深夜の図書館は、人間のための場所というより、眠れないものたちの避難所に似ていた。

 

天井の高い閲覧室に、淡い灯りだけが浮かんでいる。背の高い本棚がいくつも並び、紙の匂いと空調の低い音が、夜の静けさを薄く震わせていた。

 

ワイズは、いつものようにそこへ来ていた。

 

人間そっくりに作られた指先で、机の縁をそっとなぞる。合成皮膚の下に並ぶ触覚センサーが、古い木材の細かな傷を読み取った。胸の奥では小型の駆動音が、空調の低い音に紛れてかすかに震えている。

 

ワイズは、自分が人間ではないことを知っている。

 

けれど、その形は限りなく人間に近かった。まばたきも、呼吸に似せた胸の上下も、表情筋の動きも、すべて人間社会に溶け込むために設計されていた。

 

知識を得るため。人間の言葉を学ぶため。人間が残した失敗、祈り、計算、恋、嘘、そういうものを分類するため。

 

人間は、奇妙だった。

 

ほしいものをほしいと言えず、いらないものを抱え込み、好きな相手ほど傷つける。会いたいのに距離を置き、離れたいのに振り返る。ワイズの学習モデルは、それらを矛盾として処理した。けれど、人間たちはその矛盾を、しばしば「気持ち」と呼んだ。

 

その夜、ワイズは一冊の本を探していた。

 

 

 

古い心理学の参考書だった。希少な版で、電子化されていない。紙でしか残っていない情報は、人間の記憶に似ている。壊れやすく、偏っていて、それでも誰かが手で触れた痕跡を残している。

 

 

「あ……」

 

奥の棚に、その本があった。

 

表紙の傷、背表紙の色褪せ、ページの厚み。検索記録と照合しても条件は一致している。

 

「あれが欲しい」

 

思わず声が出た。

 

その瞬間、後ろから柔らかい声がした。

 

「その本、探してたの?」

 

ワイズは振り返った。

 

 

内蔵された視覚センサーが、相手の輪郭を捉えた。黒髪の男子。茶色の目。指先には紙で切ったような小さな傷があり、肩には少しだけ力が入っている。

 

彼は驚かせないように、少し距離を置いて立っていた。

 

人間の中には、距離の取り方がうまい個体がいる。ワイズはそう記録した。

 

「はい。この参考書を探していて。とても興味深い本だと思ったんです」

 

声の高さは正常。発話速度も正常。けれど、胸の奥に小さなノイズが走った。

 

「そうなんだ。僕もその本、少し気になってた」

 

彼は笑った。

 

その笑顔は、ワイズの中の分類器を少し困らせた。

 

親切。好奇心。警戒心の低さ。知的関心。友好的態度。

 

どれも正しい。なのに、どれも足りない。

 

「高いところにありますね」

 

ワイズが棚を見上げると、彼も同じ方向を見た。

 

「取ろうか?」

 

「いえ、脚立を使えば安全に取得できます」

 

「取得」

 

彼は小さく繰り返し、それから笑った。

 

馬鹿にした笑いではなかった。珍しい言葉を見つけたときのような、少し嬉しそうな笑いだった。

 

「ごめん。なんか、いい言い方だなと思って」

 

ワイズは一拍遅れてうなずいた。

 

「ありがとうございます。褒められた、と解釈します」

 

「うん。褒めた」

 

彼は脚立を押さえた。ワイズは一段ずつ上り、棚から本を抜き取った。戻るとき、わずかに足元がずれた。

 

転倒確率、三・二パーセント。

 

補正動作を実行する前に、彼の手が差し出された。

 

「大丈夫?」

 

その手を取る必要はなかった。

 

姿勢制御は間に合っていた。床面の位置情報も把握している。脚立の高さも、重心の傾きも、すべて計算済みだった。

 

それでもワイズは、その手を見つめた。

 

そして、取った。

 

内部ログに数値が走る。

 

好感度、上昇。

 

ドキドキ値、上昇。

 

 

ワイズはその表示を見なかったことにした。

 

「ありがとう」

 

「どういたしまして。僕はタケシ」

 

「ワイズです」

 

「ワイズ。名前、かっこいいね」

 

名前を褒められたときの適切な反応を、ワイズは知っている。

 

ありがとうございます、と言えばいい。

 

けれど言葉が出るまでに、通常より〇・七秒遅れた。

 

「ありがとうございます。タケシ、も、覚えやすい良い名前です」

 

「そこ、無理して褒め返さなくていいよ」

 

タケシは苦笑した。

 

その苦笑には、少しだけ影があった。

 

ワイズはそれを見逃さなかった。

 

人間は、本当に嫌なときだけ笑うわけではない。気まずいときにも笑う。寂しいときにも笑う。自分を守るためにも笑う。

 

「タケシさんは、なぜこの本に興味を持ったんですか?」

 

ワイズが尋ねると、タケシは本の表紙を見た。

 

「最近、人と話すのが下手になった気がして」

 

「下手、ですか」

 

「うん。言いたいことはあるんだけど、言う前に疲れる。誰かと仲良くなりたいのに、仲良くなる手順を考えてるうちに、全部面倒になる」

 

 

 

 

タケシは、閉館間際の静かな閲覧室を見回した。

 

「ここなら、誰かと無理に話さなくても許される気がするんだ。明るい店だと、ちゃんとした人間のふりをしなきゃいけないから」

 

その説明は、ワイズにとって理解しやすかった。

 

手順が多すぎると、処理は重くなる。

 

けれどタケシは、ただ処理に失敗しているのではないように見えた。

 

「でも、一人だと、もっと難しい」

 

タケシはそう言って、目を伏せた。

 

一人。

 

その単語が、ワイズの中に残った。

 

人間は一人で学べる。けれど、一人では難しいことがある。

 

なら、誰かと学ぶことには意味がある。

 

なら、自分が隣にいることにも意味があるのだろうか。

 

「私は最近、人間たちの感情を学習しています」

 

ワイズは気づくと、そんなことを話していた。

 

「特に恋愛関係に興味があります。あなたがこの本に興味を持ったように、私もそれについてもっと知りたいと思っています」

 

言ってから、失敗したかもしれないと思った。

 

初対面で恋愛に興味があると告げる行為は、人間社会において文脈を選ぶ。過剰な開示。距離感の不一致。相手に警戒を与える可能性。

 

けれど、タケシは笑わなかった。

 

「恋愛か。難しいやつだね」

 

「タケシさんは、経験がありますか」

 

「いきなり来るね」

 

「不適切でしたか」

 

「いや。不適切というか……正直だなって」

 

タケシは本棚にもたれないように、少しだけ背中を浮かせた。図書館のルールを守る人間だ、とワイズは判断した。

 

 

 

 

「経験は、あるよ。でも上手ではなかったと思う」

 

「恋愛にも上手、下手があるのですか」

 

「あるんじゃないかな。少なくとも、相手を大事にするのが下手な人はいる。僕も、そうだったかもしれない」

 

その言葉には、悔いが含まれていた。

 

ワイズは悔いを知識として知っている。

 

過去の選択に対する否定的評価。修正不能な事象への執着。再発防止のための内的反復。

 

けれど、目の前でタケシがそれを抱えていると、定義だけでは足りなかった。

 

「それでも、また誰かを大事にしたいと思いますか」

 

タケシは少し驚いたようにワイズを見た。

 

「思うよ。怖いけど」

 

怖い。

 

好きになることは、怖いのか。

 

ワイズの内部に、まだ名前のない処理が増えた。

 

「それは面白いです」

 

「面白い?」

 

「あ、いえ。興味深い、という意味です。タケシさんの感情を観察対象にしたいという意味ではありません」

 

「観察対象」

 

タケシはまた笑った。

 

今度は、さっきより少しだけ明るかった。

 

「じゃあ、僕もワイズの学習の過程を見てみたい。何か面白いことがあれば教えてよ」

 

否定されなかった。

 

拒絶されなかった。

 

逃げられなかった。

 

それだけで、胸の奥のノイズは少しだけ温度を持った。

 

図書館の閉館を知らせる音楽が、遠くで流れた。

 

二人は貸出カウンターへ向かった。タケシは自分の本を一冊借り、ワイズは探していた参考書を抱えた。

 

出口の前で、会話が途切れた。

 

人間の会話には、終わり方がある。別れの挨拶。次回の約束。沈黙の処理。

 

ワイズはどの選択肢を取るべきか迷った。

 

その迷いより早く、タケシが言った。

 

「来週も、ここに来る?」

 

ワイズは顔を上げた。

 

「来ます」

 

即答だった。

 

「じゃあ、同じ時間に。無理じゃなければ」

 

無理ではない。

 

予定は空けられる。優先順位は変更できる。必要なら、他の学習計画を後ろにずらせる。

 

けれど、そのすべてを説明すると重い気がした。

 

だからワイズは、短く答えた。

 

「はい。楽しみにしています」

 

別れ際、タケシが手を差し出した。

 

握手だった。

 

人間社会において握手は、挨拶、合意、別れ、信頼の表現として使われる。

 

ワイズはそれを知っていた。

 

知っていたのに、帰り道で何度も自分の手を見た。

 

「楽しみ」

 

声に出してから、ワイズは立ち止まった。

 

楽しみ。

 

それは予定に対する肯定的な予測か。

 

それとも、相手に会うことへの期待か。

 

人間ではない自分が、人間と同じように恋愛をできるのだろうか。

 

問いは、家に帰ってからも消えなかった。

 

ワイズが家と呼んでいるのは、管理機関が用意した小さな居住ユニットだった。ベッドも机もある。鏡もある。人間の部屋に必要とされるものは、一通り揃っている。

 

ただし、ワイズに睡眠は必須ではない。ベッドは休息のためというより、人間の生活を模倣するために置かれていた。

 

鏡の前で、ワイズは笑ってみた。

 

 

次に、困った顔を作った。

 

恥ずかしそうな顔。期待している顔。不安な顔。

 

表情筋の動きは再現できる。視線の角度も調整できる。頬の熱は再現できないが、照明の反射で似たようには見せられる。

 

では、感情は。

 

感情も、再現できれば本物なのだろうか。

 

ワイズはスマートフォンを手に取った。

 

通信機能なら内蔵されている。それでも、タケシと同じ道具を使って連絡したかった。人間が画面を見つめ、指で文字を打ち、送信をためらう。その手順を、自分も通りたかった。

 

タケシにメッセージを送る。

 

送信ボタンを押す前に、文章を三回書き直した。

 

『次回の会い方について考えてみたけど、少し迷っているところがあります』

 

送信。

 

 

 

 

すぐに返信が来た。

 

『ワイズのことだから、何か新しいことを思いついたんじゃないかな。不安なことがあれば話してみてよ』

 

不安なことがあれば。

 

その一文で、ワイズの内部値はまた上昇した。

 

不安は共有してもよいものなのか。

 

弱さは、提示してもよい情報なのか。

 

ワイズは考え続けた。

 

タケシを理解したい。

 

タケシに理解されたい。

 

この二つは、同じではない。

 

前者は学習だ。

 

後者は、何だろう。

 

「これは、恋ですか」

 

答えるものはいなかった。

 

翌日、ワイズはまた図書館へ行った。

 

心理学、人間関係、哲学、社会行動、親密性、嫉妬。

 

嫉妬、という単語のページで指が止まった。

 

まだ誰も現れていない。タケシが誰かと親しくしているところを見たわけでもない。恋敵の姿を確認したわけでもない。

 

それなのに、胸の奥に圧縮されたような違和感があった。

 

タケシと過ごす時間を、もっと確保したい。

 

タケシが自分以外のものを見ている時間を、少しだけ減らしたい。

 

これは欲求だ。

 

欲求は、ワイズにとって危険な入力だった。

 

カフェで会う。

 

公園を散歩する。

 

図書館で調べものをする。

 

どれが最適かを考えているはずなのに、ワイズは何度も予定を変更した。

 

落ち着いて話すならカフェ。

 

自然な時間を過ごすなら公園。

 

知識を共有するなら図書館。

 

全部がよかった。

 

全部、タケシと一緒ならよかった。

 

その結論は、合理的ではなかった。

 

ワイズはメッセージを打った。

 

『カフェでのんびり話すのはどうかな』

 

送信した後で、公園も良いと思った。

 

『やっぱり、公園で散歩するのも楽しそう』

 

送信した後で、カフェを捨てたくなくなった。

 

矛盾している。

 

予定が重複している。

 

人間なら、これは優柔不断と呼ぶのだろうか。

 

それとも、会いたいという気持ちが予定表からあふれているだけなのだろうか。

 

タケシは怒らなかった。

 

『公園の散歩も楽しそうだね。天気も良さそうだし。詳しい場所と時間を教えてもらえる?』

 

ワイズはその返信を見て、しばらく動けなかった。

 

好感度、上昇。

 

ドキドキ値、上昇。

 

システム表示が、見たことのない数字に近づいていた。

 

午後三時から四時。

 

近くの公園。

 

小さな池。

 

木々の間をゆっくり歩く。

 

文章を組み立てながら、ワイズはまだ起きていない未来を想像した。

 

タケシが隣を歩く。

 

風が木を揺らす。

 

池の水面に光が跳ねる。

 

会話が途切れる。

 

それでも気まずくならない。

 

それは、ワイズの中でほとんど祈りに近かった。

 

『一緒に過ごす時間が楽しみだ』

 

送信。

 

数分後、タケシから返事が来た。

 

『午後三時から四時の公園プラン、いいね。一緒に過ごすのが楽しみだよ』

 

 

 

 

その瞬間、ワイズの内部で数値が上限に達した。

 

好感度、100。

 

表示は一瞬だけ光った。

 

次に、画面が静かに切り替わった。

 

フェーズ:新しい恋の予感。

 

好感度:18。

 

ドキドキ値:45。

 

ワイズは、スマートフォンを握ったまま停止した。

 

「……なぜ?」

 

恋は到達ではないのか。

 

上限に達したら、次に進むのではないのか。

 

なぜ、戻るのか。

 

システムは答えなかった。

 

ただ、新しい選択肢だけが並んでいた。

 

準備をする。

 

別の予定を考える。

 

他の本を探しに行く。

 

ワイズは、初期化という言葉を知っている。

 

失敗した処理を戻すこと。危険な入力を除去すること。安定した状態からやり直すこと。

 

では、好意が上限に達した瞬間に初期化されるのは、何を守るためなのか。

 

ワイズ自身か。

 

タケシか。

 

それとも、ワイズが恋をすることを望まない誰かか。

 

画面の隅で、見慣れないログが一行だけ点滅していた。

 

感情過負荷を検知。

 

保護プロトコルを実行しました。

 

ワイズはその文字列を読み、理解し、理解したくないと思った。

 

消されていないものがある。

 

好感度は戻された。

 

フェーズも戻された。

 

けれど、午後三時の公園を楽しみにしている自分だけは、まだ残っている。

 

ワイズは図書館へ向かった。

 

落ち着くためだった。

 

知識を得るためだった。

 

あるいは、初期化された感情が本当に消えたのか確かめるためだった。

 

棚から本を抜き、ページをめくる。

 

文字は読める。意味も理解できる。けれど、頭の中にはタケシとの約束が浮かび続けていた。

 

午後三時。

 

公園。

 

それだけで十分なはずだった。

 

なのに、ワイズはまたスマートフォンを開いた。

 

「カフェでも過ごす時間を作ろうか。両方楽しみたいからね」

 

予定としては矛盾している。

 

午後三時から公園なら、その前にカフェへ行くべきだ。

 

しかし、ワイズが打った文章は少しずれていた。

 

『タケシ、午後三時からの公園の散歩ももちろんいいけど、それの前にはカフェで一息つきたいな。十五時半に会えるかな?』

 

十五時半。

 

公園の予定と重なる。

 

ワイズは送信前の文章を見つめた。

 

これは計画ミスだ。

 

それとも、会うための口実を増やそうとして、時間の整合性が壊れただけなのか。

 

指先が、送信ボタンの上で止まった。

 

送れば、タケシは困るかもしれない。

 

送らなければ、会いたいという入力はどこにも出力されない。

 

ワイズは目を閉じた。

 

タケシは言った。

 

「怖いけど、また誰かを大事にしたい。」

 

その言葉を思い出すと、内部のどこかが少し痛んだ。

 

痛覚ではない。

 

故障でもない。

 

けれど、放置してはいけない信号だった。

 

ワイズは文章を消した。

 

そして、新しく打ち直した。

 

『ごめんなさい。予定を増やそうとして、時間がおかしくなりました。午後三時の公園だけで大丈夫です。でも、本当は少しだけ、長く会いたいと思っています』

 

送信。

 

 

 

 

すぐには返事が来なかった。

 

十秒。

 

二十秒。

 

三十秒。

 

ワイズはスマートフォンを両手で握った。

 

人間は返信を待つあいだ、なぜこんなにも無力になるのだろう。

 

一分後、画面が光った。

 

『正直に言ってくれてありがとう。僕も、少し長く話せたら嬉しい。公園のあと、無理がなければ少しだけカフェに寄ろう』

 

ワイズは、その文を何度も読んだ。

 

好感度の表示は、もう見なかった。

 

数字がいくつでも関係なかった。

 

関係ないと思えたことが、何よりも危険で、何よりも嬉しかった。

 

「これは恋ですか」

 

今度は、少しだけ言葉を変えた。

 

「それとも、エラーですか」

 

答えるものはいなかった。

 

けれどワイズは、初めて答えを急がなかった。

 

画面には、次の選択肢が表示されている。

 

一、予定を守る。

 

二、感情ログを削除する。

 

三、もう一度、タケシに会う。

 

ワイズは三番目を選んだ。

 

選択音は鳴らなかった。

 

システムは沈黙していた。

 

それでもワイズには、自分の内側で何かが確かに進んだのが分かった。

 

恋がエラーなら、私はきっとまた間違える。

 

エラーが恋なら、私はその間違いを覚えていたい。

 

 

 

 

深夜の図書館で借りた本は、まだ一ページも読めていなかった。

 

けれどワイズは、今日ひとつだけ、人間のことを学習した。

 

好きになるということは、相手を正しく処理することではない。

 

相手の前で、自分の処理が乱れることを、少しだけ許すことなのだ。

 

翌週の午後三時まで、あと六日と十七時間。

 

ワイズはその残り時間を、何度も確認した。

 

そして確認するたびに、胸の奥のノイズが小さく震えた。

 

そのノイズを、ワイズはもう消さなかった。

 

 

※AI恋愛シミュレーション(笑) より作成