気になっていたのでしらべてみました

 

 

 

北海道幕末の探検家として名高い松浦武四郎が名付け親とされています。
当初は、「北加伊道(ホッカイドウ)」としていましたが、「加伊」を「海」と変更(へんこう)して「北海道」となったとされています。
「カイ」はアイヌ語で「自分たちの土地」という意味だそうです。
青森県江戸時代に津軽藩が現在の青森に港を作った時に、青々と茂る松林があり、その地域を「青森」と呼んだことに始まります。
秋田県はじめは「アイタ」と呼ばれており、「アイ」は「湧水」、「タ」は「地域」を表します。
日本書紀で、現在の秋田地域を「アギタ」と呼んでいたことから、「アキタ」に変化したという説もあります。
岩手県盛岡市の東顕寺に三つの大石があります。
「鬼が悪さをするので、困りはてた里人は三ツ石さまに”どうか悪い鬼をこらしめてください”とお願いしたところ、たちまち三ツ石の神様が鬼を三つの大石に縛りつけてしまった。鬼は”二度と悪さはしませんからお許しください”というので、三ツ石の神様は”二度と悪さをしないというシルシをたてるなら”といわれ、鬼は三ツ石に手形を押して山の彼方に逃げ去った」といういわれがあります。そこで、この地を「岩に手形⇒岩手」と呼ぶようになったといいます。
宮城県この地域に志和彦神社や鹽竃(しおがま)神社(⇒宮)があり、また多賀城(⇒城)が置かれていたことから、「宮城」の地名が生まれたといわれています。
山形県山形の地名は、野方里方に対する山方(山の麓という意味)からきたと言われています。
福島県文禄2年(1593年)頃、木村吉清によって、福島城として使われたのが初めてだといわれています。木村吉清が、なぜ福島城と名づけたかは不明です。



茨城県風土記で黒坂命(くろさかのみこと)が賊の土蜘蛛を打つために茨で城を築いたと書かれていることから茨城の名が起りました。
栃木県◆十千木(とおちぎ)説:栃木町(現在の栃木市)内に神明宮という神社があり、社殿の屋根にある2組の千木(ちぎ)と8本の鰹木(かつおぎ)が、遠くから見ると10本に見えたことから、神社の辺りを「十千木(とおちぎ)」と呼ぶようになったという説
◆栃の木説:トチノキがたくさん生えており、それが転訛して「トチギ」なったという説
◆地形説:栃木町(現在の栃木市)内を流れる巴波川は、かつてたびたび氾濫を起こしたことから、千切れた地形(浸食された地形)の動詞「チギ(る)」に接頭語の「ト」が付いたという説
◆遠津木(とおつき)説:「古事記」に登場する豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)が、木(毛)の国(現在の栃木県)と木(紀)の国(現在の和歌山県)を区別するため、遠くはなれた木の国という意味で「遠津木(とおつき)」と命名したものが、「トチギ」に転訛したという説
群馬県奈良時代に入るとすぐ、和銅6年(713年)の諸国の風土記編集の勅令により国・郡・郷名はその土地にあった漢字二文字で表すこととされ、この時「上毛野国」は「上野国」に、「車郡」は「群馬(くるま)郡」に改められました。
 「群馬」の漢字を当てた理由としては、この地方で多くの牧馬が飼育されていたこと、古代の人々にとって馬は権威を示す家畜として豊かさの象徴であったことが考えられます。
千葉県明治6年に木更津、印旛の両県が合併して千葉県が誕生しました。この時県庁所在地の名称を県名としました。
諸説ありますが、茅(ちがや)が生い茂る土地で「茅生(ちぶ)」と称されたものが、「ちば」に転じたということのようです。
埼玉県「幸魂(さきみたま)」が埼玉県名の由来となっています。「魂」は「玉」の意味でもあります。
これにちなんで、まが玉16個を円形にならべたものが埼玉県のマークとなっています。
東京都西の京(京都)に対する東の都の意味です。
亀甲のような都の紋章は昭和18年の東京都制施行の際、東京市のマークを受け継いだものです。
イチョウのようなマークは平成元年に、東京都のシンボルマークとして制定されました。これはイチョウではなく東京都の「T」をかたどったものです。
神奈川県昔、神奈河、神名川、上無川などとも書かれ、武蔵国久良岐郡(現在の横浜市神奈川区)の地域をいい、古くから陸上・海上交通の重要なところでした。
これが県名になったのは、横浜開港に伴い、安政6年(1859)に「神奈川奉行所」を置いたことによります。そして、明治元年(1868年)に神奈川県となりました。



新潟県信濃川河口に新しくできた河跡湖(つまり渇湖)を新潟とよんだことからこの名が付きました。
富山県室町時代に、「越中戸山郷」といわれ、戦国時代から江戸時代にかけて「外山」から「富山」へ変化していきました。
石川県石川とは現在の石川郡・能美郡を流れている手取川のことを指すそうです。
石川という郡名が県名となるのは明治になって、石川県が作られたとき、県庁が現在の金沢市ではなく、石川郡に設置されたことに由来します。
福井県この地域は「北ノ庄(きたのしょう)」と呼ばれていたが、徳川時代に松平忠昌が北は敗北に通じるとして、地名を福井と改めたことに始まります。
山梨県山裾を意味する「那智」といいますが、山が多いことから「山那智」と呼ばれ、それが「山梨」に変わったと言われています。
長野県広い盆地(原野)を意味する地名の長野市が県名となりました。
岐阜県岐は深く入り込むという意味で、阜は小高い丘という意味です。
織田信長により井口の地名が岐阜に改められたとされています。
静岡県もともと駿河府中(駿府)藩と呼ばれていましたが、府中は不忠に通じるとして、浅間神社に隣接する賤機山(しずはたやま)にちなんで改名されましたが、「賤(しず)」はいやしいという意味なので「静(しず)」に変えて静岡になったと言われています。
愛知県名古屋市南区の白毫寺は年魚市潟(あゆちがた)と知多の浦を望む勝景跡として有名ですが、この年魚市潟の「年魚市(あゆち)」が「あいち」に転じ、県名となりました。



三重県ヤマトタケル(日本武尊)が東方遠征を終えて尾津前(桑名市)から能褒野(亀山市)へ向かう途中の三重郡(四日市市)で、古事記に「『吾が足は三重の勾がりの如くして甚だ疲れたり』とのりたまいき。故、其地を號けて三重と謂ふ。」とあることに由来するとされています。
滋賀県琵琶湖沿岸の低湿地帯を意味する「すか(砂処、洲処)」が由来となっています。
京都府「京」は帝の居る処の意味から、京の都(⇒京都)となりました。
大阪府浄土真宗中興の祖である蓮如が現在の大坂城に大坂御坊(石山本願寺)を建立し、その呼称が定着しました。後に、坂は土に返る(⇒消滅する)ということを意味するので現在の阪に改称されたということです。
兵庫県
「兵庫津」と呼ばれる港(現在の神戸港の一部)があり、幕末にはアメリカやその他の国々と貿易を行うための開港場として指定されました。
明治政府発足後の慶応4年(1868)、兵庫には、周辺の旧幕府領を管轄する兵庫鎮台が置かれましたが、兵庫裁判所と改称され、さらに同年、兵庫県となりました。
県名に、「兵庫」と冠したのは、このように役所が置かれた地が兵庫にあったからと言われています。
なお、「兵庫」の地名については、かつて兵器の倉庫が、そこに置かれていたために名付けられたのではないかとも言われますが、よく判っていません。
奈良県「平らな、平坦な(土地)」を意味する「均す(ならす)」であるという説が有力です。
和歌山県和歌浦(わかのうら)は和歌山県北部、和歌山市の南西部に位置する景勝地の総称ですが、それが転じて県名になったと言われています。



岡山県戦国時代、市街地を流れる旭川右岸に天神山、石山、岡山という3つの丘がありました。
慶長2年、豊臣家五大老の1人宇喜多秀家は城の本丸を石山から岡山に移し、新しい城は岡山城と呼ばれ城下町は「岡山」になりました。
江戸時代には備前岡山藩、明治4年の廃藩置県で岡山県となりました。
広島県◆地形説:太田川の広い三角州を「広い島」と呼んだ説
◆築城説:広島城築城の時に大江広元と福島元長から一字ずつ取って命名したという説
山口県山地、森林への入り口を「山口」と言い、阿武郡にある山の入り口が由来となっています。
鳥取県「鳥取」の語は古事記、日本書紀の垂仁天皇に「鳥取造(ととりのみやつこ)」、「鳥取部(ととりべ)」という表現が出てきますが、これらが転じて地名になったと言われています。
島根県出雲国風土記に嶋根郡という地名が出てきますが、もともと「島」も「根」も岩礁を意味し、地形的に海岸線がごつごつしていたところから「しまね」と呼ばれていたということです。



香川県香川県の名称は、高松市が所属していた香川郡から取った物です。
日本書紀などには讃岐国は洪水や旱魃、地震などの自然災害が多い土地であると記されており、讃岐ではため池の開発や雨乞い儀式などが行われていた
愛媛県古事記の記述に、伊邪那岐の命(イザナギノミコト)と伊邪那美の命(イザナミノミコト)が国生みをしたとき、「伊予の国を愛比売(えひめ)といひ」とあり、この愛比売が「愛媛」に転化し、現在の県名になったとされています。
徳島県戦国時代、豊臣秀吉の四国征伐に功労のあった蜂須賀家政が、入国にともなって現在の地に徳島城を築き徳島藩が出来ました。これが県名の元になっています。
高知県山之内一豊が鏡川と江の口川の間に「河内山(こうちやま)城」を築きました。しかし、この二つの川はたびたび氾濫したため、河の字を嫌って高智に改め、後に高知に転じたということです。



福岡県かつて筑前国域を治めていた黒田氏の発祥の地である備前福岡(岡山県瀬戸内市)に因むといわれています。
佐賀県佐賀郡からとったものですが、備前国風土記には「栄(さか)の国」といふべし、と書かれています。後に「佐嘉」に改められ明治維新の時に「佐賀」に統一されました。
長崎県◆長崎港説:長崎港を開港した長崎勘左衛門純景の姓からとった名前という説。
◆地形説:海岸線が入り組んで岬が長いため「長い崎」と呼ばれていたという説
◆地名説:北條氏が新田義貞の軍勢に鎌倉を襲われて滅ぶと、代々伊豆国田方郡長崎村を領し、その地名を苗字として鎌倉の執権である北條氏の執事をつとめていたことのある長崎氏の一人が九州に流れ長崎湾の奥を領して地侍になったという説
熊本県豊臣秀吉により肥後に封ぜられた加藤清正が「熊本」という文字を使ったといわれています。それ以前は「隈本(くまもと)」と呼ばれていたそうです。
大分県◆大き田説:「豊後国風土記」には、景行天皇がこの地を訪れた時「広大なる哉、この郡は。よろしく碩田国(おおきた)と名づくべし」とし、これがのちに"大分"と書かれるようになったといわれます。
◆多き田説:実際の大分平野は広大とは言いがたく、むしろ地形は狭く複雑であり、「多き田」→「大分」との見解が最近の定説になっています。
宮崎県神話の世界に遡りますが、古事記に「竺紫(つくし)の日向の高千穂のくじふる嶺に天降りまさしめき」とあり、天照大神の孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)が降り立った国とされています。いわゆる、宮(神宮)のさき(前⇒崎)というのが地名の由来とされています。
鹿児島県◆鹿児山説:天津日高彦穂々出見尊(山幸彦)が海神(わたつみ)宮に行く際に乗った舟が鹿児山で作られたという説
◆神籠島説:「神籠もる島」という説
◆カゴは崖という意味で、四方が崖に囲まれている桜島は「カゴ島」と謂われ、鹿児島は桜島の古い名であるという説
沖縄県沖魚場説:沖あいの漁場を意味する「沖(おき)魚(な)場(は)」を由来とする説
沖な場説:沖にある場所、遠い場所を意味する「沖(おき)な場(は)」を由来とする説