フランス革命史の世界的権威、ティモシー・タケット氏の本(2003) より:
不運なことに、王妃の化粧道具のための「必需品」の製作と輸送が発覚し、小間使いの一人の疑惑をかき立ててしまった。その女性は愛国派であるばかりか、国民衛兵将校の愛人でもあった。結局、国王一家は、この女性の非番の日に当たるよう、逃亡を一日延ばすという致命的な決断をすることになる。
(中略)
だがブイエは、国王自身の信頼性についても懸念していた。ダグー侯爵を逃亡の一行に含めたのは、お供なしで旅することに不慣れな国王を補佐するための配慮であった。すると土壇場になって、国王一家はダグーを外し、その代わりに王室養育係のトゥルゼル夫人を入れた。(中略)ブイエはまた、かくも大胆な計画をやり抜くに足る決断力とゆるぎなさを奮い起こすのは国王には絶対に無理であって、共謀者たちが無防備で無力なまま反逆罪で逮捕されてもかまうことなく、瀬戸際で手を引くのではあるまいかという恐怖にも取り憑かれていた。そうした恐怖は、国王が出発日を何度も延期したことで、募りゆくばかりであった。初めは〔 1791 年〕5 月下旬の予定であったのに、それが 6 月初旬に延び、その後は 6 月 12 日、15 日、19 日と決行日はどんどん先延ばしにされた。さらに不運なことに、国王一家が出発日をまたも変更し 20 日にしたことを、ブイエは 6 月 15 日になるまで知らなかった。このときまでには、ブイエ将軍はすべての指令を出しており、彼の部隊は定められた位置へと動きつつあった。土壇場のにわか仕事で命令に変更を加えざるをえないことで、計画の成功を目に見えて損なうようないくつもの小さい過ちや不一致が生じるであろう。
【転載終了】
次に、『マリー・アントワネット 運命の24時間』朝日新聞出版 (2012) より:
変装してパリ脱出という計画は、当初 6 月 6 日を予定していた。だがルイはその日が近づくと、毎月の王室手当て 200 万リーヴルの受け取り日まで待ちたい、との意向を示した。少しでも多く持ち出せれば、それに越したことはない。今後、他国に援助をあおぐにせよ傭兵を雇うにせよ、多額の費用がかかるだろう、と。一理あるため、フェルゼンは渋々同意した。
最終的には、金貨 13200 万リーヴルとアッシニア紙幣(革命後の新紙幣)56 万リーヴルが王夫妻の手元に集まった。(中略)
新たな決行日は 6 日後の、12 日となった。仕切り直しにあたり、フェルゼンが各協力者への連絡に奔走し、ようやくすべて終えたころ、直前になって再度の引き延ばし要求を受ける。理由も納得しがたい。精霊降臨祭の前日では町に人出が多かろう、というのだ。その程度でいちいち計画を変えていたら、いつになっても実行できないどころか、いざというとき、各地に配置してある小隊に「狼少年」のような悪影響を及ぼしかねない。彼らの緊張は緩み、わずかな到着の遅れでも、容易に計画中止と思い込むだろう(不幸にも懸念は的中する)。
フェルゼンは予定どおりの決行を強く迫ったが、無駄だった。1週間後の 19 日に延ばされてしまう。
(中略)フェルゼンは3度目の変更を言い渡されたのだった。王が言うには、王太子専属の小間使いが国民衛兵の愛人とわかった、王家の動きをスパイしているに違いないので。彼女が当番の 19 日夜は避け、翌晩の 20 日に延ばしたい、王妃も同じ意見だ、と。
(中略)
しばらく言い争った末、フェルゼンはついに 20 日の決行を了承する。ただし(中略)その点をお忘れなきよう、と暗に脅すフェルゼンに対し、おそらくルイは不快を感じたに違いないが、4度目の延期の無いことだけは肝に銘じてほしかった。20 日真夜中に出立、21 日にはモンメディ到着、これはもう決して動かせません!
【転載終了】
最後に、先に載せた、『マリー・アントワネットの暗号』(2016) よりフェルセンらの書簡を再掲:
フェルセンからブルトゥイユへ
「パリにて、〈 1791 年〉5 月 23 日、14 番
国王は 6 月の第1週に出発をご希望です。と申しますのも、その時期に王室費 200 万リーヴルが支払われる予定だからです。陛下はどなたを同行させるか、頭を悩ませていらっしゃいます。サン=プリースト伯爵をとお考えでしたが、かつて大臣だったことを考えると、同行させることで何らかの約束を交わしたかのように見なされることを恐れておいでです。ただ必要に応じて国王のお話し相手となる方が必要です」
フェルセンからブイエへ
「〈 1791 年〉5 月 29 日、14 番
出発は来月 12 日に決定しました。準備は万全で 6 日か 7 日には出発できるのですが、200 万リーヴルが支払われるのが 7 日か 8 日なのです。その上、王太子付きの侍女が熱心な民主主義者で、11 日まで勤務しています。前回打ち合わせた行程をたどります。国王のご希望により、私は同行いたしません。私はル・ケノワ経由でパヴェからモンスへ抜けます[ ル・ケノワ、パヴェはいずれもフランス北部の町。]」
フェルセンからブルトゥイユへ
「〈 1791 年〉 5 月 30 日
出発は 12 日の予定でしたが、ブイエ氏は 15 日か 20 日に延期してほしいとおっしゃっています。オーストリアがルクセンブルクの監視線を強化するための時間を稼ぐためです。ブイエ氏が部隊を集結させるための口実として、こうした状況が必要なのです。メルシー氏にもお伝えください」
フェルセンからブイエへ
「〈 1791 年〉6 月 13 日、17 番
出発は 20 日夜 12 時に決定です。もう延期はありません。王太子付きの侍女がたちの悪い人物なのですが、解雇することもできず、月曜日まで勤務しているので、当日夜まで待たねばなりません。今回は信頼していただいて結構です」
「〈 1791 年〉6 月 14 日、18 番
何も変更はなく、かならず 20 日月曜日夜 12 時に出発します。遅くとも火曜日の 2 時には、確実にポン・ド・ソンム=ヴェルに到着しています。王弟殿下(ムッシュー)もご到着になることはご承知でしょうか。ムッシューをモンメディにお泊めするか、ロンウィにお連れいただけますでしょうか。もし私のためにモンメディに部屋を確保していただければ、大変ありがたいです。メルシー伯爵からの返事はまだ来ません。もう一度こちらから手紙を書いて、部隊を配置するようお願いしておきます。
20 日夜 12 時に出発することは、確実でございます。王弟殿下(ムッシュー)は別のルートを取られます」
【転載終了】
いろいろ食い違いがあって、面白いね(藁)。
まず、王太子の侍女の非番を待つ事情は、手紙によれば2回、12 日に延ばした時と、最終 20 日に延ばした時。
フェルセンの手紙では、12 日が不可になったのは、ブイエの要請による、と言っているが、その手紙の日付がおかしいのだ。ブイエに 12 日決定と書き送った翌日に、別人にあててブイエが延ばしてくれと言っていると伝えている。ここはオカシイから、ブイエのせいにして実は自分らの(すなわち国王夫妻の)事情だってことだろう。手紙には、19 日という日付は出て来ないけどね。
物語風に語っている上記2点のでは、ほぼほぼルイ16世の無能逡巡による遅れ、と言ってるんだけど。ルイ16世本人の供述調書が無いんだから、なんとでも言える ってやつ。この人を愚鈍の大食漢、とイメージ付けてしまいさえすれば、なんにつけても便利に使えるのさ、どんな不自然な失敗譚の言い訳にもね。
この3つの中で、一番タチ悪い書き方してるのは、タケット。
「この女性の非番の日に当たるよう、逃亡を一日延ばすという致命的な決断をすることになる。」
なんで1日延ばしたことが「致命的」なのか、さっぱりわからない。ブイエは、19 日を 20 日に延ばしたのを 15 日に知った。土壇場の変更 つっても、その時点では、4 日後の予定が 5 日後に変っただけで、早まるなら慌てもしようが、延びたところで、そんだけ日数あれば、対処できるっしょ。
この、根拠を伴わない断定的な言い方、これはマトモな学者の書き方ではない。この人の文章は、本当に気持ち悪いです。
2個目の本の、「ルイを脅すフェルゼン」というのも・・・!抱腹絶倒だね。
どうしたって、歴史に刻むべき ”6 月 20 日の日付” は、もうとっくに決まっていたし(なんならノストラダムスだって知ってたし。2年前のテニスコートの誓いの衆も、その語呂今日がお始めだね って肩を叩いて笑いあったさ)それを絶対に!完遂しなくちゃならないもんね、フェルセン。
さあ、6 月 20 日 とは何か。また今度。(@^^)/~~~