全体性の中の
一部の存在。
粒の1つとして
全体性の
代行で体験してる。
意思はなく
人生そのものを変えることはできない。
決まったシナリオを歩む。
まるで
自分が個として
あらゆることを思考し
感じ、癒しを行い
その上で人生を開拓したように感じても
それもまた
決まっていた人生を歩んでいるだけの話で
個として全体性を乗り超えたとかは
錯覚である。
でも時として良いドラマにはなる。
でも、
そのドラマ自体も
決まっていたことなのである。
何を感じて何を考え何をするか、しないかは
すべて
全体性として
決まっている。
しかも
同時進行で
たくさんの体験を持っているのだ。
なぜなら
時間は線ではないから。
過去、現在、未来なんて
デタラメ。
あれも
自分が個として
物事を辻褄立てて納得しやすいように
自分で組み立てている
錯覚だ。
だから
何を感じても
考えても
何をしても
しなくても
個の責任でもない。
全体性
そのものだ。
だれもがそうなのだ。
諦めて
肩の力を抜いて
身をまかせる。
考えすぎない。
それでいいのかもね。
やりたい時は
やるもんね。なんでもさ。