自分が信じたものが
自分の真実で
自分の世界となる。
信じてるものは
意外と
事象的事実としては脆い。
え、そうだったの?
そんな風に
ガラガラと
長年信じて来た
思い込んで来た
作り上げた記憶が崩れる瞬間もある。
だから
何を信じるか、なのだ。
何が起きたか
何があったのか、ではないのだ。
思い込み、信じ込んだその事実は
確かなものなのか。
誰の目から見て
確かなものなのか。
やっぱ
最後は自分の感覚しかないのだ。
幻覚、幻聴がある人に
それは幻です、
あなた以外にそんな人見えていません、
そんな声聞こえません、と
自分が感じてることと違うからと
押し付けても
その人の感覚は
変わらない。
変えられない。
変なしゅーきょーとかにハマってる人も同様。
それって普通じゃないよ、変だよ?と
周りの人が伝えても
洗脳されてたら、聞く耳持たない。
客観的事象事実を知ったその瞬間に
幻聴も幻覚も消えるわけではないのだ。
それは
人間の機能的な理由だ。
人間はそういう生き物なのだ。
自分が信じ込んだ体験をし
信じ込んだ事象のみ
事実として捉える。
他人がどうこう言おうと
それは変わらないのだ。
だからこそ
何を信じるか。
それが大事で
信念のカタチの叩き台は
幼少期に作られる部分が
結構あるのな?
だから厄介だ。
記憶なんて
大したものではい。
記憶ではなく
信念だ。
記憶ではなく
どう感じたか。
しかも過去の事象なんて
ホントに
どうでもよいのだ。