批判心を口にして
誰かに伝えたり
共感者を探すことで
人は安心するのだろうか。
そういう意味では
私は相方さんとよく似ているところがある。
批判ポイントが違うだけで
やることは同じだ。
しかし、批判は
わるいことなのか?
違和感を持つことは悪くないとは思う。
その違和感にラベルを貼る、ということで
自分を安心させるのが
わるいことにつながるのかもしれない。
しかし、
セックスアンドザティの
サラジェシカパーカーのあの有り様を
批判したくなるが
サラジェシカが、成功している人間だからこそ
安心して批判できるのである。
果たして
芸能界で落ちぶれている彼女を
私は批判するかというと
しないだろう。
つまり
人に認められている場所にいるからこそ
安心して批判してしまうのかもしれない。
しかも、その批判によって
何かを変えようなんてまるで思ってない。
人はどうでもよくて
ただ、自分の思いだけなのだ。
要するに
批判は、他人ありきではなく
自分の中の問題なのである。
子供たちが 周りの子を
なんだか悪く言ったりするのも
そういうことなのだ。
批判は
しないべきなのか。
もしかしたら。
しかし、
そうなると世の中に
メリハリがなくなる。
良いことと美しいこと、楽しいことだけ
指摘して、口にして、
なんて
わるいとされることがあるから
よいとされることを受け止めることができるのであって
だからこそ
批判はあって当たり前なんだと思う。
すべての映画を絶対褒める批評家がいても
そんな人の書く批評は読みたくないし
モデルコンテストの審査員で
全員素晴らしい、どの部分をとって比べても誰と比べても皆優劣はない、なんて
そんな目で見る人は優勝者を選抜できるわけはない。
よいところも気づくが
わるいところにも気づくことができる、
そんなアンテナを持ってるのだ。
食べ物をなんでも美味しく感じるのは
羨ましいが
舌が肥えると 何でも美味しいとは言えなくなる。
これも批判心がでる。
すなわち
その人が
感度を高く持っていられる部分であり
人よりも
「知っている」「気を使ってきた」「苦しみを持ちながら努力してきた」エリアにおいては
その人を評価、批判してしまうものなのかもしれない。
この間
発達障害の子供が
毎日お母さんの自転車に乗せられて
引っ張られて楽しそうに登校してるのを見て
息子の友達と息子が
彼らを批判していた。
歩けばいいのに。
自分でこげばいい。
足があるのに。
親から
なんでも「自分でやりなさい!」と
自立をさせられて
いやいややっている息子たちからみたら
そこが批判ポイントなのだ。
発達障害云々でない。
ふむ。