そう思えると
スムーズな人生をやっと歩めるのかもね。
そうでないうちは
二元性で
うまくいく人といかない人がいるとか
うまくいくときといかないときがあるとか
あの人は特別で
自分は特別じゃないとか
自分は不完全で、あの人は完全だとか
妙な方向にいって
二元性から離れないから
「あらあらあら?」という
生き方を余儀なくされる。
まあその「あらあらあら?」の生き方も
それすら願いががなっている状態であり
成功している状態なのだけど
それを
「意識的」に感じるか感じないかの違いだけだと
気付くのが
大きな違いなのかなと。
みんな分野が違うだけで。
その分野が細分化されている。
一人に一分野。
感情に翻弄され
さまよいながら他人の言葉に依存し
自分の感覚を信じられない状態で
いつも不安だとしても
それも、成功だ。
それも、願いがかなっているのだ。
むなしい人なんていない。
みんなが思い通りの人生を歩んでいる。
誰でも、みんな。
他人に認められたい!と思うのもよし。
そんな人生もいい。
オリンピックで金メダルを取りたい人が
1000人いても
一人しか取れない。
残りの999人は願いがかなっているのかいないのか?
というところになっても
やっぱりかなっていると思うんだよね。
何が違うのだろうというところで言うと
その人の曼荼羅のようなエネルギー状態を見るとわかるんだけど
思いが明確な形になるときはかなりはっきりと強い輪郭を持ったエネルギーがあるんだよね。
ビジュアライズする力というか。
みんなが同じ1000人が同じ明確なイメージが出来るなら
どうなるんだろうな~という興味は個人的にあるけど
でもね、そんな風に自分を疑いなく信じられるような人がそこに1000人も集まるならね
この世の中の次元も二元性から離れているから、きっとオリンピックもないよね。はは
ビギナーズラックのようなものを
1000人が持ち合わせて
つまり失敗の記憶がなくてポジティブでできるもんだと信じられる人が
集まってさ
その競技がトレーニングいらずで運だけでできるようなものだったら…
ねえ。
どうかなあ。みたいな。私はそれを。
現実化現実化とかいうけど
だいたいがもとから決まっていたことが起きるわけで
細かい細部はまあ、そこまで決まってないだろうけど
そこで遊びたい人が遊べばいいのかなと。
というのは
現実化は誰でも人を選ばず、当たり前に意識しなくても起きていて
今、目の前にある状況だって現実化だからさ。
なんか変だよね。
私が「思考の現実化」に違和感があったのはそれなんだな。
当たり前だからだ。
当たり前に求めるものが目の前に現れる人はシンプルな人だ。
失敗や落胆の経験のないピュアな子供か、一通り経験をためてから無意識に発動する不安や葛藤を意識的に排除した大人だ。不安が必要ないことに『気づいた』大人だ。
自分のエネルギー状態がそのまま外に映ってるのが現実化だからなあ。
私が違和感のある情報に最近触れないのは
やっと自分を信じられるようになったせいなのかなと思う。
違和感のある情報にわざと触れて
それを感じたかっただけなんだなと。
もともと
人は全員知っているのだ。
いろんなことを。
だから違和感を持つことがあるんだ。
でも、私は私で人は人だ。
違和感は個人的な時にとらえた感覚だ。
私はみんなだけど、でも、そのモードに入るとどうでもいい。
ジャッジなし。
個人的にとらえるときは「私は私、人は人」ととらえ
全体的にとらえるときは「なんでもいい、それでいい」(というかなにも思わない)になる。
うまくいかない人がいる中で
自分がうまくいくという状況が
いいんだと
旦那がなんかの時に言ったが
そうか。と思った。
確かに、ゲームはそういう成り立ちだもの。
そうさ~。
それでいい。
ゲームは楽しい方がいい。
制限があるほうが楽しいならそれがいい。
制限を外して
自分のエネルギー状態の抑制を外せるなら
どうなる????
ああ、こわいこわい。
やっぱり人間で生まれたから
ちょっと怖いよね。
私もこの怖さがなくなるとな~。
体験がもっと幅広くなって面白いのにね。
自分では個人的に分かってるけど
なかなか、怖くて外せないんだな。
なんで怖いかって、昔の経験なのかな~。わからんしどうでもいいけど。
だってそれが良くも悪くもないのだ。