ヒーリングの | ひとやすみの日記

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自分のための整理ノートです。
   
読んでくれても ありがとう☆

昨日、久しぶりに
ある絵日記ブログを見たけど

ヒーリングの考え方っていろいろなのねと思った。


その人は
戦うとかいう表現も使いつつ
病気を悪いものとしてとらえながらヒーリングしてた。


人間的に生きながら
ヒーリングをするということなんだな、と思った。


でもきっと
これは

私の考える小手先の遊びの現実創造のレベルと一緒だなと
思った。

その場では治ると思うんだ。


悪いものを制す気持ちでね。


でもきっと違う形をとりつつ、で同じような感覚を得ることが起きる。
繰り返し、繰り返し。
その人の前でね。


何でそう思うかって
根本的にヒーリングしてないから。


例えるなら、
シーソーの片方に、悪いと定義されるものが
どっかり乗ってるとする。

そのシーソーの反対側に同じ重さのモノを乗っけたり
その悪いと定義されるものをシーソーからどかせようとしたり


そんな小手先のことをしているだけでは
表面のケアにしかならないということ。



そのシーソーがある公園全体
またはその地域全体、ひいてはもっと広い範囲で
バランスを整えていくことで

いつの間にかシーソーにどっかり乗っていた悪いと定義されるものが
「あら、ここにいると俺バランス悪いわ」と違う場所に
うにょうにょと移動していく。

場合に寄っちゃ、変性していく。


それがヒーリングだと思うんだよね。


対処療法じゃないけど

戦うとか
病気を敵として扱うとか

その段階では

根本的にヒーリングは不可能だと思う。
具合が悪い=悪いことだととらえるうちは
多分、ヒーリングは小手先だ。

大いなる力を借りるもいい。


拒否でヒーリングは出来ない。
戦いでヒーリングは出来ない。

受け入れて
受け止めて
認めて
ヒーリングは出来る。


現実で起こるトラブルも一緒。
拒否して逃げれば、また違う場面で同じことような感覚を得ることが起きる。
受け入れて、見つめて、認めれば
それは手放すことになる。

ヒーリングって
もっと大いなるものだと思った。

その方を否定するものではないけど、
ヒーリングの在り方を
自分で改めて思うきっかけとなる二元性の一端のひとつであった。


息子が風邪をひいても
旦那が腹こわしても

とりあえず、もう動じないし
だいたい、病気が悪いものとも思えないし

まあ自分の母親や父親が死にかけて苦しいって言えば
わからんけど
一時期は惑うと思うけど
でもちゃんと帰ってこれると思う。

私は思う。
大きなヒーリングが必要だなって。


その為には自分も癒えてないと
ダメだって。