「できない」けれど
「できるようになりたいこと」って
実は あんまりないんだ
それに気付くと
自分自身や
自分のもとめることが
見えるかも
私はピアノが弾けないけれど
ピアノが弾けるようになりたいと思わない
うまく泳げないけれど
泳げるようになりたいとも心から思わない
商品の強いお勧めが苦手だけど
得意になりたいと思わない
さらに言うと
私は絵が人より上手なほうだけど
それをもっと上手にしたいなんて思わないし
その能力を「能力」と捉えずに
当たり前だと思っている
それに今でも
息子にリクエストされて絵をよく描いているけれど
苦手意識や努力、がそこには無いので
自然な行為にしか感じない
たとえば
表現するならば
私にとって
イラストなどを描く行為は
「ただ生きること」の中に含まれる
つまりこの表現で言いたいのは
それほどまでに
私の中では呼吸をするように自然なことだということだ
きっと人は
もともとできることや
得意なこととか
自然にできることに関しては
呼吸のごとくできる
そして「生きること」と同意義に捉えているのかも
たとえば
もともと
人のエネルギーに敏感で
さまざまなものが見える人にとっては
それが「生きること」であり
「意味」をつけていない
それがもともと
自然と惹かれて導かれ
得意なことであり自然なことならば
なんでも一緒
パティシエでもソムリエでもランドセル職人でも
マグロ漁船の漁師でも
医者でも
でも
それができなくて
それをしたい人は
「意味」をつけたがる
きっとそれが自分の中で自然になったときに
本当の意味で身につき
「生きること」になっているだろう
「生きること」に含まれることは
すごく大量
でも
仕事が嫌だと思っている人間にとっては
「生きること」のなかに
仕事を含めずに
違和感を持ち
「生きること」の中にある「障害」と捉えるかも知れない
生きること、のなかに
自然と
親孝行だったり
子どもと一緒に過ごすことだったり
毎日会社に行くことだったり
歩くことだったり
無理やり感がないこと
つまり
自然と身についてることは
生きること
最終的には
「やらなければならないこと」と自分で定義してしまうことは
ただの障害になり
「やりたいこと」
「やったほうが自分の気持ちの良いこと」だけをやっているだけで
いつのまにか
世の中
すご~くいい感じに回るんだと思う
すべての人が
自分の能力を開発しきったならば
「すばらしい能力(料理でも、手芸でも、メカニックでも、サイキックでも)をお持ちですね」と言われたときに
「その能力をもっていることは(使っていることは)
私にとって、ただ単に
生きていることに過ぎないんです。まるで呼吸のように自然なことなんです」
というようなことを
お互いに言い合う
思いあう
そういうのが
最終形なのでは…と
私は思った
自分に足りないところがあると思うのは
錯覚
ワクワクと学びたいと思うものは
足りないものを補うのではなく
ただ好奇心を満たすもの
そして自分自身を触発するものにすぎないのかな
と
思った
できないけど
それを「克服したいとも思わないこと」(コレが大事)を
日常にひとつでも取り込んでいるうちは
すべてがクリアに見えないかもしれない
ああまとまらない
けど
一歩一歩。