守破離という言葉があるが、その起源には諸説あって、お能の世阿弥説、茶道の千利休説など
説はさておき、
この言葉は武道を志す者にとって的をえた言葉である。
修行には段階がある。
守:
弟子入りし、師匠の教えを守り、動きをまねる。一挙手一投足を見て、触れて、感じる。
頭ではなく、体感でもってその技を受け入れるのだ。
それは動物が獲物を狩る際に母親、父親の背中を見て学ぶのと似ている。
その過程では痛い目も見ながら、あっちへ転がり、こっちへ転がりながら自らの体で体得していくのだ。
刀鍛冶に弟子入りしたものが、はじめは相槌を打つのもトンチンカンと言葉通りの槌を打ち、
先輩弟子に叱られるものだ。そもそもはじめは打たせてもらえない。
観て学び、皮膚で感じ、色を見る、音を聞くなど五感で感じ修得していくものだと想像する。
武道の稽古でも、師匠の動きはもちろんの事、発する言葉、抑揚、話し方、ジョークのタイミングまでもそっくりコピーしていかなければならない。というよりもそのようになるのだ。
とはいっても現代人は忙しい。これはその道に命を懸けて取り組む者の、ストイックな考えである。
しかし、普段の稽古の中でもそれを感じることはできる。
意識を変えてみてみよう。きっと世界が変わるはず・・・
破:
型を破り発展させていく段階。これは模索の段階である。
既存の型からどのように技を発展させ自分らしい技に変えるかを学ぶ過程である。
ここで注意するのは、自己流に技を変えるのではなく、あくまでも既存の型を踏襲しつつ、新たな解釈を加え、応用する段階である。鍛冶でいえば独り立ちし、炉の温度、風の送り方、鉄の重ね、炭の大きさ、土の配合など鍛冶に大切なものを踏襲しつつ、少しずつ変化を加えていく過程。
実践と実証、研究研鑽を重ね、技をより良いものに進化させる段階である。本当の意味で自分の技にしていく。
離:
今まで作り上げてきた技から離れ、独創性や個性を発揮する段階である。
これは自由闊達にその時に応じた技、型があってないような世界である。
まだまだ先の事になりそうだが・・・(笑)
植芝盛平、塩田剛三の晩年の姿がこれにあたると思います。
きっとその年齢になればそうなるのかもしれないですね。
また名誉や金銭、あらゆる俗世の欲からも離れていく段階かもしれませんね。
合気道の世界でも、いい歳してものすごく欲深い強い方もいて、ちょっと引いてしまう時もあります。
いつまでもしがみつき、利権を離さない。。。
人を駒のように扱い、用が無くなれば平然と切り捨てる。。。
離とは程遠いですね。
反面教師で自分を律して生きたいものです。
さて、
小生も演武で大先生方の真似をすることはありますが、
とても似つかぬ、まったく違うものになっていると自覚していますし、毎回反省もしています。涙
先生方の技に想いを馳せながら、真似る事で、すこしでも近づけるかもしれないと研鑽を続ける日々であります。
学ぶことは真似ることともいわれます。今後もめげずに頑張っていきたいと思います。( ´∀` )
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