カフェエプロンと観葉植物
再会の約束はしたものの
Rolexを預かってから
既に20年近い年月が
流れていました。
待ち合わせの場所に
行ったとて
彼を見分ける自信は
全くありませんでした。
ネットで
ありったけの画像を
検索しましたが
どれ一つとして
ピン!とくる顔は
ありませんでした。
そもそも
あの時一回限りで
二度と会うはずの
なかった人です。
当然の事ながら
覚える気も
ある訳がありません。
当時の朧げな記憶では
長身、やせ型、
長めの黒髪と口髭。
一方
ネット上のA氏は
179cm、やせ型
黒の短髪。
髭はありませんでした。
もっとも
ネットに上がっているのは
宣材写真や
ステージの写真ですから
プライベートの感じとは
違うかもしれません。
そんなこんなで
自信が持てないまま
2月のとある寒い水曜日
約束の日を迎えました。
A氏に指定されたのは
最寄駅から
少し離れたビルの1階にある
カフェレストラン風の
お店でした。
その日
外来診療が長引き
待ち合わせ時間に
少し遅れ気味だったわたしは
最寄駅からダッシュ。
お店の前で呼吸を整えて
深呼吸を一つ。
ですが中々決心がつかず
ドアを開けることが
できませんでした。
すると
何かを察したのか
黒いカフェエプロンの男性が
出てきて
「お約束ですか?」と
緊張を隠せないわたしに
声をかけてくださいました。
わたしが小さく
「はい」と頷くと
〝万事承知〟とばかりに
店内へ案内してくださったのです。
案内された先には
大きなメガネをかけた男性が一人
イヤホンを耳に
手元の何かを見ていました。
彼はわたしに気付くと
イヤホンを外して立ち上がり
「お久しぶりです、helloさん」
と言いました。
あの声でした。
ネットの画像も
わたしの記憶も
全く役に立たないほど
何一つ、どこにも
かつての面影は
ありませんでしたが
彼だと確信するのに
一秒もかかりませんでした。
そうだった。
わたしにはこれがあった。
揺るぎない声の記憶が。
声を聞いて
にわかに
自信を取り戻したわたしは
何事もなかったかのように
「ご無沙汰しています」
などと
落ち着いて返答しました。
挨拶が済むタイミングを
見計らったかのように
先ほどの
カフェエプロンの男性が
背の高い観葉植物で
わたし達の姿を
隠してくれました。
〝万事承知〟している者ならではの
気の利いた計らいに
感動すら覚えたことを
思い出します。
絶妙な位置に置かれた観葉植物で
安心したわたし達は
スイッチが入ったかのように
会話を始めました。
20年近い時間を埋めるために。
わたしはこれまでの
自分のことを話しました。
精神科医になったこと
病院の独身寮を出たこと
仕事をしながら
二人のこどもを育てていること
そして
Rolexを
今も持っていること。
A氏は
zeroを解散したこと
millionを結成したこと
バンドメンバーのこと
アルバム制作のこと
外国での活動のことなどを
話してくれました。
そして
Rolexの件は
わたしが連絡するまで
忘れていたそうです。
精神科医という職業上の習慣で
スムーズな会話を続けながらも
対象者(A氏)の外観を
余念なく観察していました。
対象者に悟られることなく
観察するテクニックは
毎日の診療で鍛えています。
驚いたことに彼は無精髭で
眉も整えていませんでした。
白髪混じりの髪は伸びて
お世辞にも整髪しているとは
言えませんでした。
肌は乾燥しており
昔と変わらぬその声は
少し嗄れていました。
大きなメガネは汚れ
レンズの奥の眼球には
精気が感じられませんでした。
店内が寒いのか
話している間中彼は
着古した感のある黒いコートを
脱ぎませんでした。
そして
そのコートのボタンは一つ
無くなっていました。
つまり
仮にも芸能人であるA氏は
あろうことか
身だしなみを
全く整えることなく外出し
わたしとの面会に臨んだのでした。