黒電話、水事室へ
独身寮に入寮して
10ヶ月が過ぎた頃
今まで空室だった相室に
入寮者がやってきました。
これまで自由に使えた水事室を
共用しなければ
ならなくなった訳ですから
少なからず不自由になりますが
そんな贅沢が
長続きする訳はありませんので
すぐに諦めがつきました。
相室となる2人は基本的には
顔を合わせることはありません。
以前にも書きましたが
一方が水事室にいる時は
水事室の照明が
自動で点灯するので
使用中である事がわかります。
そのような時
相手方は使用を遠慮するのが
暗黙のマナーだったのです。
そしてこれも以前書きましたが
そもそも研修医が
自室で過ごす時間は
極めて不規則かつ短いのが
通例です。
そして決して自炊などしません。
わたしに限って言えば
シャワーでさえ
職場で浴びていましたから
相室の方とかち合うことは
ただの一度もありませんでした。
そんな間柄ではありましたが
入寮時にはご丁寧に
挨拶に来てくれました。
わたしの勝手な予想と異なり
彼女はわたしより
10歳ほど歳上の
ベテラン女医でした。
話し方や物腰など
とても好印象だった事を
覚えています。
地方から出てきて
マンションを探しているとの事で
程よい物件が見つかり次第
退寮する予定だと言いました。
更に彼女は元々
呼び出しスタイルの寮住まいで
固定電話を引くのは初めてでした。
わたしは過去の経験を活かし
〝電話加入権の買い方〟を
得意気に伝授しました。
ただ寮に滞在するのは
短期間だとわかっていたので
受けるだけなら
わたしの電話を使ってもらっても
構わないと申し出ました。
現代であれば
考えられない申し出ですが
今と違って
個人情報管理がゆるゆるの時代です。
固定電話の番号が
学校や職場の名簿に
赤裸々に公表されていた時代です。
見ず知らずの人に
電話番号を知られる事に
1ミリの抵抗もありませんでした。
彼女は恐縮しながらも
わたしの申し出を受け入れ
電話をかける時は公衆電話を
受ける時はわたしの電話を
使う事になりました。
このような経緯で
わたしの可愛い黒電話は
水事室に置かれる事になったのです。
ちなみに
延長のための電話線の代金を
彼女が負担してくれたような記憶が
薄っすらと残っています。