ピアノを弾きながら歌う人


40年余りの月日を

ともに過ごした夫を亡くしたわたしは

大脳半球を半分

持って行かれたようでした。


今振り返ると

悲しいとか寂しいとか

人間が感じることのできる

あらゆる情動や感情を超越した

向こう岸に

わたしは立っていました。

何の感情も湧くことはなく

記憶も曖昧になり

日常生活すらおぼつかないような

毎日でした。


子ども達は

そんなわたしを心配して

一緒に暮らそうと言ってくれました。

でもわたしは

夫と共に築いたこの家から

頑なに離れようとは

しませんでした。


そんな調子なので

仕事だってできるはずもなく

上司の勧めで

3ヶ月の休職をとることになりました。


休み始めて2ヶ月が過ぎた頃です。

音だけ流していたBS放送から

聴き覚えのある声が聴こえてきました。

確か〝昭和のヒットソング〟的な

番組だったと思います。


声に誘われて画面を映してみると

そこには

若い若い

A氏の姿がありました。

30代くらいでしょうか。


ピアノを弾きながら歌うその人と

わたしにギターを教えてくれた人とは

同じ人のはずなのに

2人を重ね合わせることは

どうしても

できませんでした。


テレビ画面に彼が映し出されたのは

ほんの1〜2分でしたが

その声と姿は

わたしの脳細胞を

強烈に刺激しました。


2020年のコロナ禍。

フェイドアウトするかのように

連絡が途絶えてから

8年目の夏でした。