スコア🎼
わたしは
A氏の弟子であって
主治医ではないので
彼の復帰の時期について
アドバイスをしたことは
ありません。
彼もまたわたしに
精神科医としての役割は
期待していなかったと
思います。
そんな二人の師弟関係が
半年ほど続いた頃
A氏が
次の曲の楽譜を
持ってきました。
タイトルを
忘れてしまったのですが
あるいは
タイトルはなかったかも
しれません。
譜面を目で追ってみると
コード進行が複雑すぎて
初心者のわたしに
弾けるはずのない
難曲であることが
すぐに分かりました。
それどころか
これまでの楽譜は
初心者向けのパート譜だったのに
その日手渡されたのは
色々なパートが連なる
〝スコア〟でした。
「オーケストラでもやるの?」
と目で訴えるわたしを一瞥して
A氏は楽譜も見ずに
自らその難曲を
弾き始めました。
笑ってしまうほど難しい。
そして速い。
メロディーとコードを
一人で弾いているとは思えない
目の前で見ていても
どうやって弾いているのか
わからない
そんなプロのテクニックを
見せてくれたのは
初めてでした。
弦を押さえる彼の指と
自分の手に持った楽譜を
交互に見ながら
「キーボードパートなら弾けるかも」
などと考えていると
「これが最後の曲だよ」
という言葉が
ギターの音に紛れて
聞こえたような
気がしました。
それは
歌詞のようにも
独り言のようにも
聞こえました。
でも本当は
わたしが勝手に創り出した
幻聴でした。
A氏は
バンドのリードボーカルで
あるばかりでなく
全てのオリジナル曲の
作曲を担当していました。
ですから
彼の不在を
ピンチヒッターで
補うことは
到底できませんでした。
つまり
A氏の休養は
バンド活動の休止を意味し
バンドメンバーは
この半年間
失業状態が続いていたのです。
次々と
新しい音楽が
生まれては消えていく中で
復帰が遅れれば
遅れるほど
ファン離れへの焦りも
あったことでしょう。
何れにしても
1日も早く復帰するに
越したことはありません。
魔法のように動く指先と
何段にも連なるスコアを
ぼんやり見つめながら
わたしは
自分の役割が
その日
終わったことを悟りました。
それはA氏が
1年ぶりに作った新曲でした。