柔らかくて少し湿った声


無精髭と

ボタンの取れたコートで

待ち合わせのカフェに

現れたA氏。


柔らかくて

少し湿っているはずの彼の声が

その時は

乾いて嗄れていました。


わたしは

自分の話を挟みながら

世間話をするように

彼の話を聞きました。


A氏のバンドmillionは

自分達で作った楽曲を

自分達で歌う

〝シンガーソングライター〟

スタイルです。


A氏は

他のメンバーが作った詞に

後からメロディーをつける

作曲専門だそうです。


若い頃から

メロディーを作り続けていて

これまで

メロディーが枯渇することは

なかったそうです。


ところが最近

詞を読んでも読んでも

全くメロディーが

浮かんでこなくなって

しまったことを

思い悩んでいました。


多くのアーティストが陥る

〝創作意欲の喪失〟でした。


詞が次々と上がってくるのに

曲が仕上がらない。

詞ばかりが

容赦なく溜まっていく。

その様子を見ると

益々メロディーが

浮かんでこないという

悪循環。


当然音楽活動に支障を

来すようになり

メンバーに会うことさえ

気が重くなってしまったとの

ことでした。


そうなると

ライブやレコーディングを含む

仕事全体に対する意欲も低下して

先日ついに

ステージに穴を空けて

しまったと。


その他にも色々なことを

聞き取った結果

彼には休養といくつかの薬と

適切なカウンセリングが

必要だと考えました。


わたしはその事を

ゆるっと伝えました。


彼は小さな声で

「考えてみます」とだけ

答えました。


本来の目的であった

〝Rolexの返却〟を

確かに果たし

気になりながらも

その日はそのまま別れました。


再会の約束をしなかったことは

悔やまれましたが

携帯の番号が

わかっているので

しばらくしたら電話をかけて

様子を確かめるつもりでした。


その後2週間ほどは

仕事が立て込み

A氏のことは頭の片隅で

気になってはいましたが

なかなか連絡することが

できずにいました。


今日こそは

仕事終わりに電話をかけようと

決心したその日の夕方

彼の方から電話が

かかってきました。


彼は

「バンド活動を

しばらく休むことにしました」と。


そう報告してくれた彼の声は

気のせいか柔らかくて

ほんの少し湿って聞こえました。