今日の帰宅電車で、ボーヴォワール著「第二の性」、新訳決定版を読み終えた。
去年の秋からチビチビ読んでた。
新訳といっても、こちら、既に廃版になっていて、ナオキャンは古本屋でGET
旧版は生島遼一氏の訳で、私は読んでいないのだが、女性学の著書を昭和の男性が訳すということで微妙な違和感のある訳になっているとの事で、女性のみで『第二の性を原文で読み直す会』というものが発足し、彼女たちが訳したのがこちら。
「女は女に生まれるのではなく、女になるのだ」
という冒頭の象徴的な一言は、見事だと思う。
母性本能や、女ならではの考え方は、生まれつき備わっているものではなく、生まれてから世の女たるものを見て感じ、周囲から女として扱われることでほとんどが培われるということだ。
私は、納得です。
第一巻の「事実と神話」で、女が社会の中で歩んだ古からの歴史、神話に描かれている女の姿が事細かに説明され、第二巻、第三巻の「体験」で、男性哲学者や文学者の考察、実際に活躍した女性について触れ、最後には結論と称してボーヴォワールの前向きで決して否定的ではない女という性に対する考え方と未来への展望が書かれている。
ここでは、女性ではなく、あえて「女」という表現が的を獲ているのだろう。
セックスとジェンダーは別ではなく、ジェンダーによってセックスが意味づけられるという考え方だからだ。
今さら女性学?
ウーマンリブってバブル以降聞かないし。
と思うところもありつつ読むと、やはり今の状況とは違うために賛同しにくい部分もあるけれど、やはり社会には歴史ありきで、ここ数十年でかなり時代が変わったとしても、今までの紀元前から2000年以上の女というポジションについての歴史を分母とするならば、分子の数十年はとても軽い。米国よりもフランスの文化の方が日本の文化に近い(と私は思っている)からか、やはり学ぶところは大きい、と思う。
男女共にお互いの性別の持つ「やましさ」を取り払って接することは難しいだろうが、一方を非難することが他方を弁護するよりも難しいことを考えれば、自分の性のやましさを認めることは悪くない。結局は一人で生きてはいけないのだから、最低限の自立は性別問わず必要でしょう、というのが私の結論。
ボーヴォワールは、サルトルの「嘔吐」が印象に残り、彼のパートナーということで興味を持って読んでみたのだが、他の著書も読んでみたい。非常に魅力的な先人だ。
そして、これを読み終えた今日も、仕事のモバイルコンテンツの会議の席で
「携帯電話で見たいコンテンツで具体的に何を思いつきますか?」
と質問したところ、
「お前の裸なら見たい」
と、お偉いおじ様が超超セクハラ発言。。。
その発言に対する不快感よりも、それを聞いているほかの人々が、ナオキャンをそういう風に扱って良いのだと勘違いすることが私にとっては不快だ。
昭和のおじ様には女という劣等カーストは健在のようですかね
超越しなくては。
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