こんばんは
何時に投稿してもこんばんはを貫くえるです。
昨日書いた愛についてのブログに加えて、
愛についてもう少し書いてみようと思った次第です。
昔ツイキャスで愛について語ったんですけど
文学的には今の愛は約100年位前に始まったもの、と
大学の授業で習った記憶があります。
I love you を月がきれいですねと訳した(信憑性が問われていますが)とされるのも
1900年位のこと・・・なのかな?(1916年没なので)
シェイクスピアのロミオとジュリエットは、悲劇が流行っていた当日の流行にのったもので
作品としては高く見られていません。
(シェイクスピアは別人が作品を作っていた説は一旦置いておく)
日本では奈良時代だと聖徳太子は確か奥さん4人いたし平安時代なんて通ってたら結婚みたいな
ふわっとした感じだし。
各国で言えば男尊女卑が長い国も多々あり、好きとか嫌い以前の問題なような気もします。
聖書では、今では慈愛も愛もLOVEと訳されていますが元々慈愛はAffectionという言葉が
使われてきて、英語の愛の表現が単一化されているという謎現象も。
(ちなみに神の代名詞はHe(男性)となっていて、イギリスの女子大にある聖書に学生が
すべてSheに変えた聖書があるとか)
なら現代において、私たちはなぜこうも愛に振り回されているのでしょう。
理由として考えられるのはマズローの五大欲求です。
昔と違って家も食料も比較的潤沢にある時代、暇だから悩むのかな、と私は考えています。
例えばテレビで見る紛争地域で、愛されたいと悩んでいる人はいなさそうです。
それよりも、生きたい・死にたくない・怖い暮らしから離れたい、安全がほしい、といった
欲求のほうが強いからです。
でも日本に住んで、今Youtubeを流しながらPCを打っている私は明らかに暇です。
だから愛されたいなぁとか、寂しいなぁとか、誰かに必要とされたいなぁとか、悩んでしまいます。
これが日々忙しければ、きっとそんなことを考える間もなく1日が過ぎ去っていくでしょう。
寂しい、愛されたい、必要とされたい、そこに対抗できうる手段はもしかしたら、
忙しくすることなのかも。
私もまた仕事を始めたら忙しくなって寂しさを感じなくなるだろうし。
やりたいことがさらに増えて、時間がないって思って1日が終わるのかも。
愛されたいってすごく強い感情で、でもすべてが曖昧で。
誰でもいいからって言いながら、大体みんな特定の人からの愛情を求めてる。
親だったり、気になっているだれかだったり。
望みがわからないまま誰かの愛を適当に受けていても
丸い穴に無理やり三角のものをねじ込んで埋めているようなもので。
周りが傷ついて穴も埋めようとしているものも傷ついて終わり。
誰かの代わりの愛は与える方も受ける方もつらい。
あなたがさみしいと思うなら、まずは自分のさみしさを覗いてみるしかない。
どうしてさみしいのか、何が満たされないのか。
その気持ちはどこからきているのか。
向き合えないままがむしゃらにほかのものでさみしさを埋めても
更に穴は広がるばかり。
でも向き合うのも苦しい。
その苦しさは一時のものだけれど、それでも苦しい。
自分の心の穴に向き合うと、穴から隠した自分が覗いて囁いてくる。
愛されたいと、寂しいと、苦しいと、全てあなたのせいだと。
あなたがすべての原因なのだと。
見て見ぬふりした傷ついた自分を放置すればするほどきっとそれは
コントロールできなくなるから。
何かを抱えているなら、どこかで頑張って向き合ってみて下さい。
1人では無理なら向き合わせてくれる人を探してみて。
愛されたいと思うなら、どうしてそう思うのか、いつから?誰に愛されていなかったから?
そんな疑問を持ってみると少し違うのかも。