Herb Ellis Biograhy -Ⅱ
<オスカー・ピーターソン・トリオで一気にジャズの桧舞台へ>

1945年、ジミー・ドーシー楽団に参加したエリスは、よく46年には同楽団で初録音も経験した。そして、同楽団のメンバーであったピアノのルー・カーターとベースのジョン・フリゴと「ソフトウィンズ」というトリオを結成。しかし、営業的に上手く行かなかったのか、50年には解散してしまう。そんなエリスに53年、一大転機が訪れる。オスカー・ピーターソンのトリオで初代ギターを務めていたバーニー・ケッセルが脱退。代わってエリスが2代目に抜擢されたのである。加入後、すぐにノーマン・グランツが主催するJATPコンサート出演のため初来日を果たした。だが、日本の観客はケッセルのプレイに期待したのが正直なところ。
それだけに無名の彼にとって日本でのステージは試金石とも言えるものであった。しかし、アップテンポをものともしないスピーディーなアドリブ・ソロを披露したばかりか、3声ヴォイスによる4分刻みのバッキングは、ドラムレス編成というリズム面でのハンディをカヴァーして余りある猛烈なスウィング度で、聴衆をうならせてしまうのに十分であった。本国アメリカに戻っても行く先々で同様のプレイを披露し、ケッセルの代役を見事に果たしたエリスの名は瞬く間に知れ渡った。
結局ピーターソン・トリオには5年間在籍。その間に、最高傑作のひとつとして名高いライブ盤「シェークスピア・フェステバルのオスカー・ピーターソン・トリオ」を残すなど、同トリオの黄金時代を築き上げる大きな原動力となった。その一方で、初リーダー作「ellis in wonderland」を録音。続いて57年にヴァーヴ・レーベルと契約し、「ナッシング・バット・ブルース」や「サンキュー・チャーリークリスチャン」など62年までに5枚のアルバムを同レーベルへ残した。ちなみに、エリスは55年に約半年間ほどピーターソン・トリオを休んでいるのだが、このときの代役を務めたのはケニー・バレルであったというのも面白い。
■エラ・フィッツジェラルドとオスカー・ピーターソン・トリオ

1945年、ジミー・ドーシー楽団に参加したエリスは、よく46年には同楽団で初録音も経験した。そして、同楽団のメンバーであったピアノのルー・カーターとベースのジョン・フリゴと「ソフトウィンズ」というトリオを結成。しかし、営業的に上手く行かなかったのか、50年には解散してしまう。そんなエリスに53年、一大転機が訪れる。オスカー・ピーターソンのトリオで初代ギターを務めていたバーニー・ケッセルが脱退。代わってエリスが2代目に抜擢されたのである。加入後、すぐにノーマン・グランツが主催するJATPコンサート出演のため初来日を果たした。だが、日本の観客はケッセルのプレイに期待したのが正直なところ。
それだけに無名の彼にとって日本でのステージは試金石とも言えるものであった。しかし、アップテンポをものともしないスピーディーなアドリブ・ソロを披露したばかりか、3声ヴォイスによる4分刻みのバッキングは、ドラムレス編成というリズム面でのハンディをカヴァーして余りある猛烈なスウィング度で、聴衆をうならせてしまうのに十分であった。本国アメリカに戻っても行く先々で同様のプレイを披露し、ケッセルの代役を見事に果たしたエリスの名は瞬く間に知れ渡った。

結局ピーターソン・トリオには5年間在籍。その間に、最高傑作のひとつとして名高いライブ盤「シェークスピア・フェステバルのオスカー・ピーターソン・トリオ」を残すなど、同トリオの黄金時代を築き上げる大きな原動力となった。その一方で、初リーダー作「ellis in wonderland」を録音。続いて57年にヴァーヴ・レーベルと契約し、「ナッシング・バット・ブルース」や「サンキュー・チャーリークリスチャン」など62年までに5枚のアルバムを同レーベルへ残した。ちなみに、エリスは55年に約半年間ほどピーターソン・トリオを休んでいるのだが、このときの代役を務めたのはケニー・バレルであったというのも面白い。
■エラ・フィッツジェラルドとオスカー・ピーターソン・トリオ
