生きる意味 | Hello,ハルチカ

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幸福感も切なさも全部、宝物にしたいから。


私はよく母と話をする。生活時間を共にすることが多いし、ある程度気も好みが一致するので言語化が上手くいかなくても伝わることが多く、多少喧嘩した所で今すぐは離れられない。だから普通の人にしたら嫌われそうなどうでもいい話をするには最適な相手だ。今日は生きることについて話してみた。それについてまとめてみた。




人生一度きりだから、後悔のないように生きる。昔から母に言われていた事だった。だから娘の私はやりたいことをある程度は思う存分やらせてもらえてきた。恵まれているのは間違いないが、それでもやりたいことがあればどうにかやりくりするもんだと思う。だから、大切な人達が「やりたいことをやれない」と決めつけていたり、そう思わせる環境を作っている周りの人達には時々憤りの感情を持つこともある。ちなみに私は偽善活動をするのが好きだ。


前にも書いたが、ここでいう偽善とは「自分が良かれと思ってやった自己満足行為」のことだ。詳しくは過去のブログを。

偽善について


そこで最近考えるポイントが、何故偽善活動をするのかということ。世の中そんな簡単じゃないけど、例えば全ての物事が善と悪で別けられるとしよう。偽善活動は、基本的には善を選択することを意味する。しかし何故善なのか?


損得勘定で言うと善は得だ。善を選択すれば気持ちが良い。自分の何かしらの欲求が満たされる。しかし悪は逆に欲求を満たすことが出来ずにストレスを抱える。欲求とは、動物全てが持っている生存本能のことだ。それでは「何かをしたい」という欲は同時に「生きたい」という意思でもあるのではないだろうか。

やりたいことをやっている人達はすごく輝いて見える。尊敬とか凄さなのかなって思ってたけど、それはその人の動物的本能が疼いているのがわかるから惹かれるのかもしれない。言い方を変えれば、その人の生きる力に感化されているのだろう。



しかし最近「やりたいことがないもしくはわからない」という人をよく見かける。やっているうちにやりたいことが分からなくなってきた、というのはまだ理解できるが、何もやりたいことがわからないというのは私にはわからなかった。母は「刷り込み」が原因ではないかと言う。


子供の頃は周りからの教育によって価値観が作られる。子供がやりたいと思ったことも、周りによって「それは悪だ」と教えられる。そうして自分のやりたい気持ちを抑えて、大人になっていく。世の中には何にもやりたいことがないのに誰かが何かをやりたいと言うと悪口を言ったり邪魔をしてくる人がいる。しかし彼らもきっと昔はやりたいことがあったはずなのに刷り込まれたのだ。それが善だと教えられたから、他の人に対しても同じようなことをする。



余談だが、やりたいことをやるにしても周りのことは考えなければならないと母は言った。親がやりたいことを貫くために、子供がやりたいことができなかったというケースがるに耐えないと。人間一人で生きている訳ではないから、何をするにも誰かを巻き込むことになる。だから巻き込まれる人にやりたいことを許してもらう必要があると。



話は戻る。じゃあ自分はなぜ生きるのか。私はまだやりたいことがあるから。母は、自分が死ぬ理由が特に無いから生きているらしい。今死ぬと誰かしら困るから、と。なんで生きてるのか考えるのは欲求が複雑化した人間ぐらいじゃないかな。でも人間も動物。産まれる理由とか生きる理由とかそんなに難しくなくて「自分が今生きてるから」でいいんじゃない?と思った。過去形にした「生まれてきた理由」も、前から決まっていた訳ではないから言い換えると「生きた理由」なんじゃないだろうか。





最後に真逆の感情「死にたい」についても考えてみた。厳密には「逃げたい」「楽になりたい」という本能なのではないだろうか。人間以外にはあんまりイメージのない感情なので分析が難しくだいぶ雑な憶測だ。それもまた1つの欲求である。嫌なことから逃げられたらいいのに逃げられないから、死んで逃げようという考えになる。死んだらその人の身体的機能が無くなる訳なので楽になるかというとそもそも楽という状態になる訳では無いが、もう苦しまずにすむと考えれば楽なように感じるのはわかる。


話をしていたら、たくさんの管に繋がれたひいおばあちゃんを思い出した。もう何も食べれない。起きてるか寝てるかもわからない。話すこともできないし、家族のことも誰一人わからない。見ていて正直とても辛い。




世の中には素敵なことも理不尽なこともいっぱいある。でもそれも、自分が生きてるからだ。


世界はとてもよく出来ている。


この世界に生まれたことを幸せと思う。