以前紹介した
書籍版「泣ける2ちゃんねる」
ですが・・・・
ヤヴァイわこれ、マジで泣けるわ(´;ω;`)ブワッ
まだ、「子供から親へ」と「親父とサシで」の2章しか読んでないんだが、
移動中の電車内や休憩中のルームで独り号泣寸前。・゚・(ノ∀`)・゚・。
そんな泣けるエピソーソを少しだけ紹介。
~迷惑の掛け逃げ~
ウチの母が父が死んだ時には(正確には静かに動かなくなった時)
「勝さん、勝さんってば!私あんたに沢山迷惑かけられたんよ、
これからお返ししてもらわんと困るやないの、ねぇ、勝さん」
と言った。そして・・・
「私にこれから迷惑掛けていいけん、まだ逝かんで!」
と言った。私と姉と兄はただ泣いてそれを見ていた。
~思い出があふれた手紙~
俺の親父はグータラでロクな稼ぎがなかった。
そんな訳で家は貧乏だった。弁当に持っていったおにぎりの具も魚の骨だけ。なんて時もあった。
3人兄弟で年の離れた末っ子だった俺は兄と姉のお古ばっかり着ていて、兄が使い古したラジカセをもらい、
何一つ欲しいものなんて買ってもらえなかった。
兄貴たちもよく親父に殴られたり正座させられたりしていた。
そんなオヤジに母親は何の文句も言う事も無く、寿司屋とかでせっせとバイトしていた。
俺はそんな家庭環境に生まれてきた事を小さい頃からホントに憎んでいた。
なんでこんな親父なんだろう、
母親はなんで働くんだろう、
なんでウチは貧乏なんだろうと。
そして去年27歳になった俺は家を出て婿になって結婚した。
相手は3個下の裕福な家庭で育った女性。
妻を親に紹介する時、婿に行くといっても「あんたの自由だよ」と母に言われた。
その時は「当然だ」と思い、何も考えもしてなかった。
そして結婚式前日、親から「最後くらいはみんなで食事しよう」と言われた。
それもそうか?と思った俺はアパートから実家に向かって出ようとした時、
郵便受けに手紙が入っていたのに気付いた。
母からの手紙だった。
小さい頃の他愛もない出来事とか病弱だった俺を看病した思い出なんかを汚い字で書いてあった。
そして最後に「あなたのこれからの人生の幸せを願っております。27年間ありがとう。」
今までこんな事を書いたり口にする人じゃなかった。
一生懸命働いて育ててくれた事を考えたら物凄く涙が出て来た。
色んな思い出と共に、27年間お世話になりました。
~母にかなわぬ親孝行~
成人T細胞白血球リンパ腫(だったかな?)という長ったらしい名前の病気で
母は俺が中2の時入院した。
俺はアホだったもんで、母がどんな重病を患っているのか知らなかった。
ああそうなんだ、よくわからんがすぐ帰ってくるんだなと思ってた。
母が入院して1ヶ月が経ち、2ヶ月が経ち、3ヶ月が経った。
会う度にやつれてゆく母の顔を見て、鈍感な俺でも死を目前にしていることがはっきりと理解できた。
母は病院のベットの上で笑顔を絶やさず、俺の前では泣き言など一切口にしなかった。
抗がん剤の為か、髪の毛が抜け、口内がただれ、ほとんど食事も摂れなくなっていた。
今日はリンゴジュースを3分の1も飲んだよって誇らしく言う母を見て、
俺は見舞いの帰りにいつもトイレの個室で声に出さず泣いていた。
自分で稼げるようになったら、美味いもの沢山食べさせてあげようと思った。
お前も大きくなったんだねって、微笑みながら言って欲しかった。
でも俺の母はジュースを飲みながら死んでいった。
無力な中学生の前で静かに息をひきとった。
叶うことのなかった親孝行の夢。
そして、コップにn残ったほんの少しのリンゴジュース。
それらを思い返すたび、どうしようもなく悲しくなるのです。
(´;ω;`)ブワッ
所々かぶる俺はこういうので泣きそうになります(´;ω;`)ブワッ
親父がグータラだったことや、アニキや姉のお古も多かったこと、
ラジカセを結構、重宝していた事とか。・゚・(ノ∀`)・゚・。
現状、ウチは既に親父は亡くなっており、母親はアニキと暮らしています。
今度、実家に帰ったらまた母親に孝行したいと思います。
最大の親孝行は嫁さんつれて実家に帰って孫の顔を見せてあげることなんだろうけど、
ごめん、まだそういう風にはいきそうにないわ俺。・゚・(ノ∀`)・゚・。
という訳でアニキ任せた( ´∀`)σ)Д`)プニュ
ってか、ウチのママンは
「時々元気な顔を見せてくれるだけで十分親孝行だ。」
なんて言っていたが、それじゃ息子の俺が満足しないのだよ( ´,_ゝ`)プッ
別にたいした事が出来るわけじゃないが今度も何かしてあげたいと思う。
ママンにはホントに苦労を掛けてると思ってるんで
これからの人生くらい楽しく生きて欲しい。
で、寿命で家族みんなに囲まれて看取られるくらい幸せな死に方をしてほしいと
勝手に思ってる俺なのでした(´ρ`)
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