私の傍らにはいつもヘッセがいた。「車輪の下に」(近年は「車輪の下」という題になっているが、私は自分の愛読書にこだわりたい)をはじめ、その大半の小説、エッセー、詩を読んだ。中でも「郷愁」は、折に触れて少なくとも7、8回は読んだ一番の愛読書だった。カルフ、マウルブロン、ガイエンホーフェン、モンタニョーラなどヘッセゆかりの地を妻と廻ったのは、もう20年近く前のことだ。それは我が人生最良のエポックの一つになっている。久しぶりにヘルマン・ヘッセを読み直した。
ガラス玉演戯?
ヘルマン・ヘッセのガラス玉演戯を読了した。50年以上前に購入した文庫本(定価を見ると200円/冊×上下巻2冊)だが、当時は意味が理解できなくて途中で投げ出した本だ。書棚に置きっぱなしだった。 書名のガラス玉演戯とは何かということが、当時は読み進んでも一向にわからなかった。断捨離でこの本を手にする機会もこれが最後になるだろうと思って読み始めた。
それは芸術中の芸術の仮の名のこと
結果、ガラス玉演戯が何かが分かった。やはり無駄に年を重ねただけではなかった。というか、若い頃はじっくりとこうした難解な本に取り組むだけの時間的精神的余裕がなかった。 結局、ガラス玉演戯とは、音楽、瞑想、数学などを組み合わせた、この世には実在しない芸術中の芸術という、作家が考えた虚構のものだ。幼少時から優秀なために国家機関の英才教育を受け、さらに周囲の大人たちや教師らの信頼と引き立てを得て、名人(=聖職者)にまで上り詰めた人物が、その地位があまりにも社会から遊離していることを実感し真剣に悩み、最後はそれら一切の恵まれた地位と名誉を捨て一介の教師に身を投じるという内容だった。
聖職者は虚構の内に沈殿する
ヘッセの小説はどれもドラマのようなストーリはなく、こうした精神遍歴の内容が特徴だ。結局、税金で養われた聖職者らが恵まれた生活環境に埋没して、現実社会から遊離し、自らの専門領域だけに没頭し、あたら貴重な頭脳を浪費して自己満足していることを内部告発するという、まさに今の宗教家や文化人らの存在意義に通じる問題提起だ。 だからと言って、実益の有無で補助金額が査定される今日の風潮もいかがなものかと思う。正解のない難しい問題だ。
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