「もしもし、前原か」
数か月ぶりに聞く黒川の声だった。
対面で会った時の声と少しトーンが違う。
あの時は高ぶる感情のままに声を出していた印象だったが、今日は落ち着いた喋り方に聞こえた。
私は唾を飲み込んで静かに返事をした。
「はい」
心臓がドクドクしているのがよくわかる。
黒川が何故このタイミングで電話をしてきたかはわからない。
しかし、実際に突然電話が来た。
そして、今私は話している。
まず、自分がしなきゃいけないことはとにかく冷静になることだった。
対面したあの時は恐怖のあまり何も話せなかった。
声が震えてまともな返事すらもできなかった。
しかし、今日も同じ対応ではいけない。
微かに残されたプライドが、強い気持ちで臨まなければダメだと自分を鼓舞してくる。
会話の主導権を握るべく、こちらから切り出した。
「何の電話ですか・・・」
黒川は少し興奮したように答える。
「奥さんはどうだ?」
何を言っているのかわからない。
おそらくは、あの書類を送ってきたことの反応を聞きたかったのだろう。
私は咄嗟に黒川が望む答えをしようと嘘をついた。
「あんなことして楽しいですか。もう大変ですよ」
黒川は嬉しそうに言った。
「当たり前だろ。お前が確認しろって言ったんだからな」
私はそれ以上、反論はしなかった。
黒川は続けた。
「八代とも話しているけど、あいつもダメだな」
今度は八代について話し始めた。
「非常識な男だ。こんなこと社員を処罰しないのはあり得ない」
口調が荒くなっていくのを感じる。
ここで私は答えた。
「私は相当叱責を受けています。おそらく処分もされます」
これも事実では無かったが、黒川の反応を見るために嘘をついた。
黒川は更に怒り口調でこう言った。「柿子は今病院に通っている。精神病の症状だ。お前達のせいでな!」
私は一瞬ひるみかけたが、ここで負けてダメだと震える唇を抑えながら必死に答えた。
「それは私も一緒です。毎日体調不良ですから」
黒川は私の言葉には一切反応せず、最後にこう言った。
「俺はお前達を絶対許さないからな。後悔しても遅いってことだ」
そう言うと電話が切れた。
私はしばらくベンチから動けなかった。
妻へ書類が送られてきてから1ヶ月。
ここまで一切の連絡がなく平穏な日々が続いていた。
少しずつ終わりに向かって進んでいるものと前向きに捉えていた自分が情けなくなった。
この電話でその考えが全て誤りだったことがわかった。
ここまで耐えて耐え抜いてきたのに。
また振り出しに戻された気分だった。
また始まる恐怖の毎日・・・
そう思うと、正直この状態をいつまで耐えられるかもうわからなかった。