最近よく襲ってきた気持ちとして、テーマの書いたとおり虚しさでした


何のために生きているというような虚しさじゃなくて、ただの虚しさそのものでした(汗)


もう都会人の定番の楽しみとなったかもしれませんが、旅に出ること。


私の場合ではその楽しみよりも、その面倒くささばかり意識しててクレジットカードとか、旅行の代理店とか、ホテルの予約なんて、贅沢三昧にふけり飽食的なことはまず、嫌な感じm(_ _)m

といっても、皮肉なことこの俺こそ、贅沢三昧にはなれないけど、日常の飽食状態で自律の自覚があんまりない人間でしたm(_ _)m


じゃあ、いつ、なんでそういうくだらない道徳臭いことばかり考えるようになるのかも忘れるくらい、ただただの虚しさでした(;^_^A


正直にいうとこういうわけもない虚しさを感じ続けるなんて苛立ってて面倒くさい!!


聖人に列せられることは嫌いだし、俗人っぽい生活も要らない…どうするつもりというか、どうしようもない虚しさ…

結局、何のために生きているというくだらないところにまた帰っちゃう気がするm(_ _)m


そういう毎日の中で再びルネサンスのことを思い出させる本を偶然に見つけてそれを少しずつ読んでいくと、次のようなフレーズとぶつかった。

ユリウス・カエサル(Julius Caesar)の言葉に、次の一文があります。

“人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない”

(☆。☆)(☆。☆)

今ではこういう重たい言葉にしか興味を持っていないなんて!

おそらく、もう変わり続ける自分の気持ちと取り巻く環境に飽きるかもしれませんが、いつまでも変わらずにいると言われる真実の正体が見たくなるのです。そして、こういう発言のできる人物の知恵に憧れている。この発言をするカエサル自身は、本当の、全部の真実が見えるかと聞いてみたい。現実のすべてというのはどういう意味なのでしょうかって知りたい。

もともとは、現実のすべてが見えていると発言するに値する人間はいるもんかと、疑っている自分。

少なくとも、真実を構成する素粒子世界への人類的な認識は、不完全だと思います。なぜなら、
本質的に確率の記述しかできないという不完全さにあるのです。人間の認識による制限こそ、その“本質的に確率”の要因となっているのではないでしょうか。


もし旅に出なければならないのだったら、素粒子世界へ行きたい!人間の姿から解き放った形で。