最近、ジークムント・フロイトの理論に惹きつけられていました。
この年まで生きれば生きるほど、自分の内面への探求が強くなる一方ですから。
このままじゃもう生きられなくなるという気持ちがあります。
世界に絶望して自殺したいわけではなく、この生き方のダメなところはどんどん気づいていくという感じの“生きられなくなる”なのです。
じゃ、私っていったい何なのという、哲学的な質問を考えてばかりいる。
人間としての苦痛を痛感してそれを改善したいという、哲学者的な思いでも、宗教者的な思いでもあるかもしれませんが、自分だけための改善策を磨き出したいだけです。
このような事情でジークムント・フロイトの思想と接触。
普通ならジークムント・フロイトの思想を少しでも読んでみたらすぐに気持ちが悪くなるはずだと思いますが、自分には、けっこうふさわしい理論と思う。
所詮暗闇の説ばかりですから。人間の誇っていることを馬鹿みたいに書いているから。
たとえば、フロイトによると、男性の赤ちゃんには一種のOedipal Complex。どんなコンプレックスというと、見たくない方は絶対、スルーしなければならないほど、きもいものです。
赤ちゃんは母親の柔らかくて暖かい胸から母乳を得られて食欲を満足させるという経験から、無意識に母親に一種の性的な欲望を持ち始める。だが、時間が立てば経つほど、そんな赤ちゃんがすぐに、もう一人の敵の存在、自分の母親を奪い取った父親も認識し始める。その時その赤ちゃんのなかでは、父親を殺す、母親とセックス的な親しさを独占しようとするという意識ができました。ということです。
どうだろう?とてもないことだろう?人間はそんなものではないと思っているだろう?てめぇだけの変態くそやろうのくせに、押し付けてこないよって。
私の場合では母親とセックス的な欲望までもできるとは思わなかったが、父親の絶対的な権威から逃げたいという意識は、おそらく、意識ができる前にももうちゃんとできたと思う。それに、この恨みは私からだけなのではなく、父親にも同じ恨みが持っていると思います。つまり、恨み合うということです。絶対的な権威を誇る父親は、すべての家族メンバーを従えるという“力への意志”と、息子からの絶対的権威への抵抗という争い。
とはいえ、まだ子供だった私は、嫌だけど父親に頼り生きる必要だという事実をよく知っているから、本心を抑えるための、フロイトの言葉で言えば“超自我”を生じさせた。
この超自我は、自分の思いの中でちゃんと父親という役を演じ続けていったん本心(イド)からの欲望を抑制したり阻止したり罵ったりしてきた存在。
今ははっきりとわかっているが、恋にできないのもこういうわけだとも言える。
すべての快楽も罪、その罰として不運がきっと巡ってくるという自分ルール
誰かと恋することも快楽の一種だからそれも罪、許されないこと
悲観的の目でこの世を見ているのは、別に悲観主義ではなく、超自我がいつまでも自分の精神や感情を見張っているためです。というのも、楽観的思想はまた罪ですから。
よく考えてみたら、子供のとき、父親に悪評価をされることは今ではいっさいやりたくないのも、逆に、怯えることをいっぱいさせなければならないのは正道、父親との付き合いによるできたこういう超自我の働きかも。これでしか生きてこないから…