こないだ、古典ギリシャ語を“猛勉強”している(=1日でせいぜい、数ページの教科書を読むだけ)
普通ならある程度の文法や語彙を習得したらさっそく、会話や作文などを試しながらより高度な語学力を身につけていくはずだったが、その母語話者がもう完全に時間の波に消えていく古典ギリシャ語の場合では会話の習得を焦る必要はないし、むしろ、その語形と音声を通して理論的に存在し得る印欧祖語の再構築に、大きく役立っているのでその方向への研究は、言語の習得自体よりもずっとおもしろいと思っています。だからといってギリシャ語で作成される文章への理解をいっさい無視してもいいのも妥当じゃない。私今、勉強しているのは作文や読書のための能力を培うのではなく、たったギリシャ語の変形(形態素と音素とアクセントとの変化)だけ。というのも、語形の変形を全部、長期記憶に置きながらいざというときにまた、同じ長期記憶から一度記憶した語形を取り出すのは難しいからです。長期記憶はおもしろいものですね。忘れることはないし、見たことのあるものを全部インプットすることも可能。一見素晴らしいこの長期記憶にしても、「ロード」(思い出すこと)には(短期記憶より)もっと遅くて時間がかかるし、そこへのキーがなくなると二度と覚えられないこともある。それをプログラミングに例えるとまるで、一度宣言した変数へのメモリアドレス参照をなくしてその変数がまだメモリに残っていても、そこへ辿り着くためのアドレスがないと無意味という話と、同じ理屈です。
語形変形の記憶に専念しているものの、おもしろくて気になった文型がみつかりました。実は、記憶の限りではラテン語も、次に紹介したい文型を持っているようです。
それは、恐れ・心配を表す文型です。
教科書からそのまま、例文をここにコピーさせてもらいます(汗)アクセント符号がついたギリシャ語の字母をキレイに表示されることはできないようですから読みやすいよう語彙単位ごとに()で囲まれていることにする。
(φοβούμεθα) (μὴ) (ὁ) (βασιλεύς) (ἡμῖν) (ἐπιθῆται)
We are afraid that the king may attack us
王が襲ってくるのを恐れる
ギリシャ語と英語の訳語も教科書のものですけど、日本語は、その英語の訳語からのものでした(汗)ご覧のようにギリシャ語の語彙力は、今で言えばゼロでした。それにしても見分けられる語彙はやはり、ほんの少し、あります。上の例文をより読みやすいよう、語彙の対応もやってみます。ギリシャ語の名詞は“てにをは”を内包しているので日本語の訳語として格助詞がついているのです。
ὁ βασιλεύς = the king = 王が
ἡμῖν = (to) us = 私たちに
φοβούμεθα (英語phobiaの語源かな) = (We are) afraid = (私たちが)恐れる
ἐπιθῆται = (the king) attacks = 誰かに攻撃を与える、即ち、(王が)襲う
μὴ = 否定副詞(英語と日本語にも直接的に対応するものを持っていないようです)
あれこれ言ってきたけど、だから何?もう気づいた方もいらっしゃるかもしれませんが、何々に対して恐れ・心配という気持ちを表すとき、英語の場合(実は中国語でも)では、否定詞はどこでも見つからないけどギリシャ語では、μὴという否定副詞の導入が必要です。それはなぜでしょうか?
これについて教科書は、追補説明としてその理屈を次のように説明している。
「The fear-clause construction with the subjunctive may be a development of a dependent clause from an originally coordinate construction: We are afraid. Let the king not attack us → We are afraid that the king may attack us.」(接続法を使って恐れの気持ちを表すという文型はもともと、並列句から従属句へ変遷しているのかもしれない:我々が恐れる。王の攻撃を止めよう!→王が襲ってくるのを恐れる)
著者の理屈もわかっているが、接続法には、誘い・勧誘・意向を表すという機能を持っているので王の攻撃を止めよう!という意向、意思を表す独立の文はその起源と言っても差し支えないと思います。
でも私はやはり、ずっと反抗期のやつだから著者さんの解釈じゃなくてほかの説明をやってる。ポイントはμὴの性質と、恐怖という心理なのです。まずは、μὴについて語ります。ギリシャ語のμὴは、性格上として、英語の不定冠詞に似ていると思います。つまり、漠然とした否定、不確かなことへの否定、つまり、指定して限定する出来事への否定じゃなくて事象一般への否定という、不定冠詞の「不定」の性質を持っているものなのです。そして、接続法自体は、話者の推測や推量を表しているのは基本的です。要するに、話者自身が確定・限定できないことのだったら接続法とμὴの出番。ちなみに接続法は、その法は、方法を指すのではなく、話者のムード(心の持ち方)を指している。要するに、接続法は動詞形態の一種です。
次は、恐れ・心配という人間の心理を考えてみてください。
もし、明日の試験を心配していると、ある人が発言するとしたら、いったいどういう意味なのでしょうか?こだわりすぎるけどこの一般発言をより正確に表現させてもらおう。
明日の試験を心配している
=明日の試験に合格しないことが起こっていないと断言できないので心配している。
ややしつこいからそれを分析してみたら
明日の試験に合格しないこと = 仮の最悪の事態
起こっていない = 最悪の事態への否定
断言できない = 最悪の事態への否定が不確か
だから、心配。
つまり、○○を心配していると発言するたび、○○はかならず、その発生が話者にとって望まれないこと。その事象が「起こらないでほしい」ところこそ、否定の表現が入ってくる。そして、「最悪の事態が起こらないでほしい」の「ないでほしい」はあくまでも、確実の否定じゃなくて希望的な否定ですね。ギリシャ語は、そういう確定できない否定をμὴで表し、最悪の事態が起こる可能性があるという不確定さを接続法で表しているというわけです。合わせて言ってみれば、起こりうる最悪の事態が起こる可能性(接続法)について、起こらないでほしいしか言えなかった(μὴ)という虚しい希望。つまり、「ないでほしい」という部分を一括してμὴで表す。先に挙げた例文をもう一度考えてみましょう。
(φοβούμεθα) (μὴ) (ὁ) (βασιλεύς) (ἡμῖν) (ἐπιθῆται)
話者にとって「起こりうる最悪の事態」に相当することは、
(ὁ) (βασιλεύς) (ἡμῖν) (ἐπιθῆται)(王が我々を襲ってくる)
でも、そういう最悪事態への否定は確定できないので漠然とした否定のμὴをその前に挿入、
(μὴ) (ὁ) (βασιλεύς) (ἡμῖν) (ἐπιθῆται)
そして、全体的に日本語でそれを理解したら
(φοβούμεθα) (μὴ) (ὁ) (βασιλεύς) (ἡμῖν) (ἐπιθῆται)
王が我々を襲ってくるという最悪の事態がやはり、起こらないでほしい、叶わないかな?って、心配しているという意味です。
ギリシャ語の美しさはここにある!
(φοβούμεθα) (μὴ) (ὁ) (βασιλεύς) (ἡμῖν) (ἐπιθῆται)
We are afraid that the king may attack us
ご覧のように英語のほうはより「粗末」で話者の心の持ち方を繊細に表現することはできない。ただ○○ことを恐れるという表現になっちゃう。もし話者の気持ちも細かく表現したいならより冗長な文も必要のようです。それに対してギリシャ語のほうは、コンパクトなμὴと接続法の使用によって話者の心の持ち方を巧みに表現していて実に、素晴らしいと思っています。もちろん、こういう言語の良し悪しはただ、私の独りよがりなものだけですね。
普通ならある程度の文法や語彙を習得したらさっそく、会話や作文などを試しながらより高度な語学力を身につけていくはずだったが、その母語話者がもう完全に時間の波に消えていく古典ギリシャ語の場合では会話の習得を焦る必要はないし、むしろ、その語形と音声を通して理論的に存在し得る印欧祖語の再構築に、大きく役立っているのでその方向への研究は、言語の習得自体よりもずっとおもしろいと思っています。だからといってギリシャ語で作成される文章への理解をいっさい無視してもいいのも妥当じゃない。私今、勉強しているのは作文や読書のための能力を培うのではなく、たったギリシャ語の変形(形態素と音素とアクセントとの変化)だけ。というのも、語形の変形を全部、長期記憶に置きながらいざというときにまた、同じ長期記憶から一度記憶した語形を取り出すのは難しいからです。長期記憶はおもしろいものですね。忘れることはないし、見たことのあるものを全部インプットすることも可能。一見素晴らしいこの長期記憶にしても、「ロード」(思い出すこと)には(短期記憶より)もっと遅くて時間がかかるし、そこへのキーがなくなると二度と覚えられないこともある。それをプログラミングに例えるとまるで、一度宣言した変数へのメモリアドレス参照をなくしてその変数がまだメモリに残っていても、そこへ辿り着くためのアドレスがないと無意味という話と、同じ理屈です。
語形変形の記憶に専念しているものの、おもしろくて気になった文型がみつかりました。実は、記憶の限りではラテン語も、次に紹介したい文型を持っているようです。
それは、恐れ・心配を表す文型です。
教科書からそのまま、例文をここにコピーさせてもらいます(汗)アクセント符号がついたギリシャ語の字母をキレイに表示されることはできないようですから読みやすいよう語彙単位ごとに()で囲まれていることにする。
(φοβούμεθα) (μὴ) (ὁ) (βασιλεύς) (ἡμῖν) (ἐπιθῆται)
We are afraid that the king may attack us
王が襲ってくるのを恐れる
ギリシャ語と英語の訳語も教科書のものですけど、日本語は、その英語の訳語からのものでした(汗)ご覧のようにギリシャ語の語彙力は、今で言えばゼロでした。それにしても見分けられる語彙はやはり、ほんの少し、あります。上の例文をより読みやすいよう、語彙の対応もやってみます。ギリシャ語の名詞は“てにをは”を内包しているので日本語の訳語として格助詞がついているのです。
ὁ βασιλεύς = the king = 王が
ἡμῖν = (to) us = 私たちに
φοβούμεθα (英語phobiaの語源かな) = (We are) afraid = (私たちが)恐れる
ἐπιθῆται = (the king) attacks = 誰かに攻撃を与える、即ち、(王が)襲う
μὴ = 否定副詞(英語と日本語にも直接的に対応するものを持っていないようです)
あれこれ言ってきたけど、だから何?もう気づいた方もいらっしゃるかもしれませんが、何々に対して恐れ・心配という気持ちを表すとき、英語の場合(実は中国語でも)では、否定詞はどこでも見つからないけどギリシャ語では、μὴという否定副詞の導入が必要です。それはなぜでしょうか?
これについて教科書は、追補説明としてその理屈を次のように説明している。
「The fear-clause construction with the subjunctive may be a development of a dependent clause from an originally coordinate construction: We are afraid. Let the king not attack us → We are afraid that the king may attack us.」(接続法を使って恐れの気持ちを表すという文型はもともと、並列句から従属句へ変遷しているのかもしれない:我々が恐れる。王の攻撃を止めよう!→王が襲ってくるのを恐れる)
著者の理屈もわかっているが、接続法には、誘い・勧誘・意向を表すという機能を持っているので王の攻撃を止めよう!という意向、意思を表す独立の文はその起源と言っても差し支えないと思います。
でも私はやはり、ずっと反抗期のやつだから著者さんの解釈じゃなくてほかの説明をやってる。ポイントはμὴの性質と、恐怖という心理なのです。まずは、μὴについて語ります。ギリシャ語のμὴは、性格上として、英語の不定冠詞に似ていると思います。つまり、漠然とした否定、不確かなことへの否定、つまり、指定して限定する出来事への否定じゃなくて事象一般への否定という、不定冠詞の「不定」の性質を持っているものなのです。そして、接続法自体は、話者の推測や推量を表しているのは基本的です。要するに、話者自身が確定・限定できないことのだったら接続法とμὴの出番。ちなみに接続法は、その法は、方法を指すのではなく、話者のムード(心の持ち方)を指している。要するに、接続法は動詞形態の一種です。
次は、恐れ・心配という人間の心理を考えてみてください。
もし、明日の試験を心配していると、ある人が発言するとしたら、いったいどういう意味なのでしょうか?こだわりすぎるけどこの一般発言をより正確に表現させてもらおう。
明日の試験を心配している
=明日の試験に合格しないことが起こっていないと断言できないので心配している。
ややしつこいからそれを分析してみたら
明日の試験に合格しないこと = 仮の最悪の事態
起こっていない = 最悪の事態への否定
断言できない = 最悪の事態への否定が不確か
だから、心配。
つまり、○○を心配していると発言するたび、○○はかならず、その発生が話者にとって望まれないこと。その事象が「起こらないでほしい」ところこそ、否定の表現が入ってくる。そして、「最悪の事態が起こらないでほしい」の「ないでほしい」はあくまでも、確実の否定じゃなくて希望的な否定ですね。ギリシャ語は、そういう確定できない否定をμὴで表し、最悪の事態が起こる可能性があるという不確定さを接続法で表しているというわけです。合わせて言ってみれば、起こりうる最悪の事態が起こる可能性(接続法)について、起こらないでほしいしか言えなかった(μὴ)という虚しい希望。つまり、「ないでほしい」という部分を一括してμὴで表す。先に挙げた例文をもう一度考えてみましょう。
(φοβούμεθα) (μὴ) (ὁ) (βασιλεύς) (ἡμῖν) (ἐπιθῆται)
話者にとって「起こりうる最悪の事態」に相当することは、
(ὁ) (βασιλεύς) (ἡμῖν) (ἐπιθῆται)(王が我々を襲ってくる)
でも、そういう最悪事態への否定は確定できないので漠然とした否定のμὴをその前に挿入、
(μὴ) (ὁ) (βασιλεύς) (ἡμῖν) (ἐπιθῆται)
そして、全体的に日本語でそれを理解したら
(φοβούμεθα) (μὴ) (ὁ) (βασιλεύς) (ἡμῖν) (ἐπιθῆται)
王が我々を襲ってくるという最悪の事態がやはり、起こらないでほしい、叶わないかな?って、心配しているという意味です。
ギリシャ語の美しさはここにある!
(φοβούμεθα) (μὴ) (ὁ) (βασιλεύς) (ἡμῖν) (ἐπιθῆται)
We are afraid that the king may attack us
ご覧のように英語のほうはより「粗末」で話者の心の持ち方を繊細に表現することはできない。ただ○○ことを恐れるという表現になっちゃう。もし話者の気持ちも細かく表現したいならより冗長な文も必要のようです。それに対してギリシャ語のほうは、コンパクトなμὴと接続法の使用によって話者の心の持ち方を巧みに表現していて実に、素晴らしいと思っています。もちろん、こういう言語の良し悪しはただ、私の独りよがりなものだけですね。