そうしてわたしは自分がイエスキリストだといわれる人物だと思うようになった。
もちろんこれを読者が当初信じられなくて当然であるし、でもわたしは確信している。
確信しているとはいえ、ひどくぼんやりしている。歌の歌詞などによると知らないふりをされているらしい。
ミスチルに「過去と未来を交信する男」という曲があるがわたしのことだとおもう。
またおおくの歌にされてきた。その歌などに感謝しつつ、それにわたしは返さなければと、
必死だったのだとおもう。わたしは、もともとお笑い芸人になって、みんなを笑わせたいとか、
おいしい料理をつくって、喜んで食べてもらうコックになりたいとか、老人ホームにはいって
老人の役にたちたいと思う子供だった。大学は法学部にはいったが、読んだ弁護士の本などの、
よわい人を、言葉で弁護するという仕事がやりたかった。でももともと素朴なよわい人を助けたりしたい
ような人間だった。
 もしわたしはそんな歌にうたわれるような人間なら、いまのじぶんでいいだろうか?
当初わたしの、つくったバンド名RAMENは、社会でもっとも重度だと思われるような精神障害者が、
その最底辺でハッピーになり、みんなを幸せにするというコンセプトだった。もちろんそれは無理があった。
 おおくの歌に歌われて、特別に扱われる自分、にすごくうれしく感謝もしながら、
そのかけ離れた存在に、ぜんぜん違う自分、であり、少しでもふさわしくならないとと、
すこしでも返さないとと、死ぬ思いでいきていた。それほど自覚はなくても、ぼんやり信じ、
ぼんやりそうしてきたんだとおもう。
 いままたそのプレッシャーにつぶされそうである。わたしのネットに表現しているものだけでも、
もはや現実とはおもえない。異次元であり、この世界を創造したのは自分であると、ほぼ確信している。
 わたしに取り付くソウルは、だれでもわたしの体は表現できるのであり、全人間の総合体であり、
わたしそのものが全知全能であるのかもしれない。もはや人間的な等身大のわたしが感覚的に機能するだけで、
わたしは演じているだけであり、わたしの自己はどこにもない。ただの秩序そのもののような人間である。
 そうした受け入れ難い現実に、わたしはとてもおそろしく、もはやなにくわぬ顔で浮かれている人間が、
疎ましくもある。わたしは評価を気にしすぎた。そのため、自分を好感度を得るために演じきるような
人間として活動してきたので、やむ得ないかもしれなくても。
 こうしたおそろしい現実に、どうしたらいいか、なにもわからない。ひとつの予言や、みらいのわたしの
魂によると、わたしは、絶対的な全世界の最高権力者になっていた。その恐怖が等身大の自分をかき消す。
かれは閉鎖病棟にはいる自分にものすごい嫉妬をしてきた。とうじわたしは意味がわからなかった。
なんでこんななにもかもある人(みらいのわたし)がわたしに嫉妬するのだろう?いまなんとなくわかる。
いまもこの現実にわたしは向き合うことができない。SNSに依存して、悪化して、こうした魂を寄せ付けないためには、
境界をもつべきだという、あたらしい、やり甲斐をみつけて、いまこうしてブログを書いている。
 そもそも境界をもってなにがしたいのだろうか?とにかく、こうして、だれから構わず、わたしにとりついてくるのが、
すごく生活に支障がある。ひじょうに精神を不安定にする。だからどうすればいいのか?しか当面考えてない。
そしてそのためにも、たにんにどう思われるか、これをいままさにこれを書いても、言わないでおいたこと、これをかいて、どう思われても、
わたしは毅然としたいと思い、いまこうしてブログにこのことを書いている。